<未来に伝える沖縄戦>城下町焼き尽くされた 玉木利枝子さん(79)上


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玉木利枝子さん(右)の戦場体験を聞く具志堅唯さん(中央)、眞榮田紅亜さん=11日午後、那覇市の那覇高校

 那覇市若狭で生まれ育った玉木(旧姓・酒井)利枝子さん(79)にとって戦争の始まりは、1944年10月10日に沖縄を襲った10・10空襲でした。医者だった父を含む家族一同、空襲から逃れるように首里、宜野湾へと避難します。年が明けると父が軍医として沖縄戦に動員され、その後4月1日に米軍が沖縄本島へ上陸しました。「死ぬ前にもう一度父に会いたい」と、玉木さんは家族と共に再び首里へ向かいました。那覇高3年の具志堅唯さん(17)と眞榮田紅亜さん(17)が、玉木さんの話を聞きました。

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 宜野湾から一昼夜かけて南へ向かったが、首里までしか行けなかった。なぜかというと、ものすごい爆撃の中でね。祖父は、首里城の丘に日本軍の第32軍司令部があることを知っていて、そこに行けば、父がいるはずの球部隊や野戦病院の場所をすぐに聞けると思っていた。ところが祖父が軍隊のことばかり尋ねるので、日本の軍人から「お前はスパイか」と言われた。結局、父を捜し出す困難さを思い知らされただけだったんだけど。
 どんどん飛んでくる艦砲射撃、上空からは爆弾、夜になれば照明弾、焼夷弾と、もういろんな砲弾が飛び交っていた。昼は頭すれすれに飛んでくる小型戦闘機のグラマンが、一定の幅を定めて、ものすごい数の銃弾を一気に何百発も打ち込んだ。バーッと。これが1機や2機ではなく、縦横無尽に飛んでいる。のどかな城下町だった首里に、家は一軒もなくなり、焼けかすになった木の幹だけがあちこちに立っていた。

※続きは7月27日付紙面をご覧ください。

未来に伝える沖縄戦 玉木利枝子さん(下)

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