<未来に伝える沖縄戦>県庁連絡員として徴用 神谷依信さん(84)上


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沖縄戦体験を振り返る神谷依信さん(右)の話に聞き入る上地安諄君(中央)、松村一大君=16日、那覇市首里金城町の養秀同窓会館

 那覇市識名に住む神谷依信さん(84)は旧制沖縄県立第一中学校(県立一中)在学中に沖縄戦に巻き込まれました。那覇市立首里中学校3年の松村一大君(15)、上地安諄君(15)が神谷さんの話を聞きました。

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 私は1928年に玉城村(現在の南城市玉城)仲村渠で生まれ、42年4月に県立一中に入学しました。太平洋戦争が41年12月8日に起こり、翌春から一中の生活が始まった。
 田舎から都会に出てきたものですから、それは楽しい学校生活でした。休講で早めに学校が終わると、首里の図書館で読書したり勉強したりしたものです。しかし、次第にさまざまな物資が不足していきました。途中で配給制になりましたが、店に品物がない。そうした生活状態から戦争へ突入しました。

 《44年の「10・10空襲」以降、米軍は空襲を繰り返しました。那覇の街は壊滅状態となり、県庁も庁舎が崩落するなどし、機能停止状態となりました》

 44年の半ばごろから、軍からは奉仕作業の命令が来て、飛行場造成や壕掘りに駆り出されるようになりました。厳しい作業でしたが、みな我慢しました。
 45年2月2日だったと思います。3年生のうち19人が県庁に派遣され、連絡員という任務に就きました。楚辺や松尾、開南といった地域で空襲を免れた空き家に県庁各課を移したのです。私が派遣された地方課は、現在の那覇高校の近くに事務所がありました。
 軍作業に残る友人に比べれば、連絡員は楽だったと思います。事務所に待機し、文書を配達することが主な仕事でした。地方課は30人余はいたそうですが、派遣されたころには10人程度に減っていました。戦争に備え、県や軍は住民の疎開を計画していましたが、住民は消極的でした。そのために県庁職員が率先して疎開しなければならず、そうして数が減ったのです。

※続きは8月24日付紙面をご覧ください。

神谷依信さん(84)下

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