<未来に伝える沖縄戦>軍から見放され解散 神谷依信さん(84)下


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鉄血勤皇隊として体験した沖縄戦について説明する神谷依信さん=16日午後、那覇市首里金城町の養秀同窓会館

 《県庁連絡員を務めていた神谷依信さん(84)=那覇市=は1945年4月4日、一中鉄血勤皇隊に合流しました》

 私たちは一中鉄血勤皇隊の本部の壕に戻ると、軍服や銃、銃弾などを支給されました。特別班として二つの壕を貫通させる作業に当たり、3交代制で昼夜ぶっ通しで作業しました。こうして作業に従事しているさなかの5月14日、「首里も危ない」と本島南部に撤退することになったのです。私は野戦重砲兵第一連隊に配属となり、東風平(現八重瀬町)の志多伯、真壁村(現糸満市)真壁へと移動しました。

 真壁の陣地では、与座岳の観測所との間に設けた電話線が砲撃で切断されたため、私たちが補修に出掛けました。それはまさに命懸けの作業です。
 6月18日ごろです。真壁の壕近くに米軍の戦車隊が通過したという情報が入りました。19日になり、いよいよ大変だということで米軍に斬り込みに行くことになりました。私たちは銃しかないので、缶詰に爆薬を入れた手作りの手りゅう弾を持ち、夜に出発しました。真壁から摩文仁村(現糸満市)米須へ進んだのですが、引率兵が「われわれは国頭で戦う。君らは自由にしていい」と解散命令を出したのです。私たちは軍から見放されてしまいました。
 そうしているうちに夜が明けようとしているので、米須の高台から真壁辺りに石積みの隠れ場所を見つけ、そこに身動きできないほどの窮屈な思いをして入っていました。午後2時ごろに米兵に見つかり、「大変だ。攻撃される」と思っていると、手りゅう弾が投げ込まれ、入り口近くの3人が爆風を受けて戦死しました。
 こうして「私たちは生きられない、死のう」ということになったのです。それじゃあ今生の思い出にとポケットに忍ばせていたたばこを吸うことになりました。しかし、かびているものですから皆せきをしてね。それがおかしくて大声で笑いました。
 もう死ぬのも怖くなくなり、いよいよ1、2、3の合図で信管のひもを引いたのですが、これが爆発しないんです。ますます声を上げ笑いました。「やはり生き永らえないといけないな」と冗談も出ましたよ。

※続きは8月25日付紙面をご覧ください。

神谷依信さん(84)上

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