<未来に伝える沖縄戦>昼は岩陰、夜は空き家に 金城千枝さん(84)上


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家族で一人だけ生き残った体験を語る金城千枝さん(右)と、金城さんの話を聞く金城一輝君(中央)と大城秀太君(左)=12日、南風原町津嘉山の自宅

 南風原町津嘉山に住む金城千枝さん(84)は南風原国民学校高等科を卒業した直後に沖縄戦に巻き込まれました。南風原町立南星中学校1年の金城一輝君(12)と大城秀太君(13)が金城さんの話を聞きました。
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 私は1929年に生まれ、南風原村(現南風原町)の津嘉山で育ちました。国民学校の時は学校に通う前に壕を掘ったり、芋を炊いたりしてから学校に通ったよ。国民学校の卒業証書は戦後に届いたけどね。津嘉山の辺りではね、民家に兵隊さんが泊まっていてね。一番座、二番座といったいい部屋には兵隊さんたちが寝て、自分たち家族は土間で寝ていたんだよ。私と妹は年頃だったから、兵隊がいると怖いので、天井で寝ていたさ。寝る前にはしごを上げて(兵隊たちが)登って来られないようにしてね。どこの家も同じような感じだった。10・10空襲で那覇の街が壊滅的な被害を受ける前まではみんな普通に家で生活していたよ。

 《45年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。日に日に戦況が悪化してきたころ、金城さんは、祖母、母、妹4人と共に7人で南部の具志頭(現八重瀬町)にある親戚の家に避難することにしました》

 具志頭に行った日は暑い日だった。南部はまだ戦場になっていなかったから、夕方ごろに津嘉山から具志頭まで歩いて行ったよ。昼は(米軍が)爆弾を落とすけれど夜は静かだったね。荷物も持ちきれるだけ持って行ったよ。食べ物から鍋から持って逃げた。具志頭では、親戚が小学校の教員をやっていたので、そこで寝かせてもらった。食事は、最初はお米とか持っていたけど、後は何も無いから、芋とか取ってきて食べていたよ。ひもじくしていたよ。

※続きは10月26日付紙面をご覧ください。

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