《津嘉山(現南風原町)を出て、本島南部に避難していた金城さん家族は「住民は知念(現南城市)の収容所に行くように」と書かれた米軍のビラを発見しましたが「収容所に行けば殺される」と、知念から遠ざかるように玉城(現南城市)、港川(現八重瀬町)を経由して真壁村(現糸満市)まで逃げてきました》
戦争ではいつ死ぬか分からない。死ぬのは怖くなかった。死ぬ人がいっぱいいるから、それが当たり前だと思っていた。手足をやられて痛がっている人を見たらね、「同じ死ぬなら一発の弾で死にたいね」と神様にお願いしていた。父は「命は宝だから死なないようにしなさい」といつも言っていた。
今の名城ビーチ(現糸満市)の所で米軍が朝礼していた。父が「自分は66歳で年だからもう殺されても構わない」って言って米軍の所まで行ってね。父はアメリカに7年間いて働いていたから英語が話せたわけ。米軍の偉い人が「収容所に行け」と言ったみたいで、近くの収容所に向かった。6月22日に収容所に入った。
《金城さんらは収容所から軍艦に乗せられ、金武まで連れて行かれます》
軍艦からそのまま海に捨てられると思っていた。夫の父は「捕虜になったら申し訳ないから海に飛び込もうね。子どもたちをよろしくね」と言って、死のうとしているわけさ。私は「自分の子どもは自分で育てなさい。絶対飛び込まないでよ」と止めた。
船で運ばれて金武に着いた。山に仮小屋を造って住んでいた。この地区にはたくさんいたよ。何百人もいたはず。4カ月間ぐらいいたかね。
戦争が終わって10カ月ぐらいして地元の津嘉山に帰った。何もない焼け野原だった。自分で仮小屋造って生活を始めた。かやを刈って木をあちこちから取ってきて自分で造った。
※続きは12月15日付紙面をご覧ください。
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