<未来に伝える沖縄戦>学友の死 目の当たり 石川栄喜さん(84)上


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
戦争体験を語る石川栄喜さん(左)と、話に聞き入る中部農林高校の國吉真ノ介君(中央)、新里碧さん(右)=11月25日午後、うるま市安慶名の石川さん宅

 うるま市安慶名に住む石川栄喜さん(84)は、旧制沖縄県立第一中学校(県立一中)在学中に沖縄戦に巻き込まれました。県立中部農林高校2年の國吉真ノ介君(17)と新里碧さん(17)が石川さんの話を聞きました。

    ◇    ◇
 私は1929年にうるま市勝連の平安座島で生まれました。小学校に入った時から毎日、「戦争、戦争」という教育を教え込まれていました。県立一中に入学してからは親元を離れて那覇に住んで学校に通いました。電柱には「欲しがりません勝つまでは」などの標語が貼り付けられていて、人々はその標語を見ては戦争への意気を高めていたんです。
 それでも44年の初めまでは沖縄は平和だった。次第に、日本全国から輸送艦に乗せられて日本の軍人が那覇港にどんどんやってきました。何千、何万人でしょうね。那覇にある中学校、女学校は軍が寝泊まりするようになって授業ができない状況になりました。

 《44年10月10日には、米軍が那覇など南西諸島各地を爆撃した「10・10空襲」が起こります。那覇の街は壊滅状態となりました》

 10・10空襲の日、私は少年戦車兵の試験を受けに県庁の試験場に向かっていたんです。首里から安里まで来た時に那覇の小禄の飛行場と那覇港に飛行機から爆弾が落ちるのが見えました。大変な爆発音で炎が空を焦がすようでしたよ。米軍は昼の12~1時は爆弾を落とさなかったんです。ランチ、昼食の時間だったんですね。その隙に首里に逃げて私は助かったんです。

※続きは1月11日付紙面をご覧ください。

→石川栄喜さん(84)下

★YouTube

★通常版