<未来に伝える沖縄戦>那覇の街は火の海に 島袋文雄さん(76)上


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島袋文雄さん(右)が語る那覇市壺屋の戦時中や戦後の体験談を熱心に聞く松本萌さん(中央)と下地実千果さん=2013年12月10日、那覇市の壺屋町民会自治会

 那覇市首里石嶺町に住む島袋文雄さん(76)は、戦前に同市壺屋で生まれ、戦時中は本島北部を転々としました。弾が飛び交う中、道の険しいやんばるの森を逃げ続けました。沖縄戦当時は小学校入学前でしたが、今もあのときの記憶は忘れられないと振り返ります。那覇市立石田中学校1年の下地実千果さん(13)と松本萌さん(12)が、島袋さんの戦争体験を聞きました。

    ◇    ◇
 私は1938年1月5日に生まれ、両親、二つ上の兄、三つ下と五つ下の弟と暮らしていました。私が生まれた壺屋は那覇の田舎で、たくさんの緑と大きな木に包まれていた。のんびりした所だったね。
 私が、間違いなく戦争が沖縄に起こると分かった出来事があった。戦争の中心になる20代から30代くらいの先輩たちが、壺屋の人たちを戦争から守ろうと、今の那覇市ぶんかテンブス館から桜坂の方に入ってきた所にある通称「てんぷら坂」に防空壕を掘った。坂の一番下の第1号から第6号まで六つ。焼き物の仕事をしていた私の父もいつも仕事後に壕を掘りに行っていた。

 《44年10月10日、米軍機が那覇市を中心に攻撃した「10・10空襲」が、島袋さんたちを襲います。壺屋の人たちは自ら掘った壕に逃げ、隠れます》

 米軍機が飛んで来ると、町民会が空襲警報を鳴らすわけ。そしたらみんな急いで自分の壕に逃げていく。私と二つ上の兄も、今のひめゆり通りから国際通り向けに、やちむん通りを一生懸命走って行った。そしたら今の那覇市立壺屋焼物博物館の近くで「駄目。来るな。溝に伏せなさい」と大きな声が聞こえて、近くの溝に飛び込んで防空ずきんをかぶりうずくまった。
 だけどね、当時私は小さかったでしょ。とても物珍しくて、顔を上げてみた。そしたらグラマン機という米軍機がものすごい低空でぐわーと飛んで来る。あまりにも低空すぎて、パイロットの顔見えるんだよ。そして機銃掃射と言ってね、ばらばらーと弾を撃っていくわけだ。それを何回か繰り返した。しばらくして1号の壕から「おいで」と言われ、やっと壕に入ったが、6号の壕が崩れて、2人が死んでしまった。

※続きは1月25日付紙面をご覧ください。
→<未来に伝える沖縄戦>父銃殺、必死で止める 島袋文雄さん(76)下

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