南風原町津嘉山の神里富夫さん(77)は、沖縄戦当時9歳で南風原国民学校の3年生でした。家族と本島南部を避難し続け、1945年6月20日前後に糸満で米軍に保護されました。兵役に取られた兄が旧南洋群島で亡くなり、沖縄戦でも母を失いました。那覇市立仲井真中学校2年の玉城あいりさんと友利遙音さんが話を聞きました。
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男4人、女4人の8人きょうだいで、その四男でした。長男の兄は兵役に取られて亡くなりました。長女と三女は宮崎県に疎開して、残りの5人と両親が沖縄に残りました。私は当時、南風原国民学校に通っていました。2年生の2学期からは校舎が陸軍病院になるということで、それからは学校に行っていません。今の公民館みたいなところで勉強したけれども、それもほとんどやった記憶がないですね。
《戦争が近づく中、津嘉山の集落にも日本軍が入ってきました》
津嘉山でも、瓦ぶきの家のほとんどは、日本軍が強制的に入っていました。私の家には5、6人の通信隊が入って、一番座に陣取りました。床の間に通信機があって、ツートントントンツーってね。日常生活で兵隊さんをよく見るものだから、いつのまにか階級も覚えていました。襟章の星が一つなのは二等兵。二つは一等兵とかね。こんな話も聞こえてきました。「アメリカーはヒージャー(ヤギ)の目をしていて夜は見えないから、竹槍突いたら殺せる」という宣伝がありました。実際にはそうじゃなかったね。こういったうわさも回ってきました。「アメリカーは残酷で鬼と一緒だから、捕虜はすぐ殺さない。男の子は耳を切って、ちんちんを切って殺す。女の子はおもちゃにして殺す」と。こんな怖い話が伝わってきて、恐怖心がありましたね。
※続きは2月8日付紙面をご覧ください。
→<未来に伝える沖縄戦>艦砲避け大度海岸へ 神里富夫さん(77)下
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