《1945年6月の初めごろ、高嶺村(現糸満市)の国吉に着きましたが、艦砲射撃によって、親戚とはぐれてしまいました》
父が「どうせ死ぬのなら、古里の近くで死のう」と言い、津嘉山方向に引き返そうとしました。ところが、引き返した(兼城村=現糸満市の)照屋ら辺では海からの艦砲射撃がひどくて帰るどころじゃない。だからまた、南に引き返したんです。伊敷集落の近くに兄たちが壕を掘って、数日間ここで過ごしました。
《神里さんは、「父の教えで沖縄戦を生き抜くことができた」と話します》
父は避難中、家族を道の両側に分けて歩かせました。道のそばには溝がありましたから、「弾が来たらすぐ飛び込め」と教えられましたね。「直撃でなければ斜めにしか破片は飛ばない。だから、すぐ伏せれば大丈夫」とね。いつのまにか艦砲がどこに落ちるか、音で分かるようになりました。遠くに行く場合はピューボーン。近くはピュッ、ボン。この時は、すぐに伏せなければいけない。こういう具合に弾の聞き分けをして、飛び込む訓練をしました。
※続きは2月9日付紙面をご覧ください。
→<未来に伝える沖縄戦>通信隊が自宅陣取る 神里富夫さん(77)上
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