<未来に伝える沖縄戦>兵隊の指示どおり協力 大城タケさん(84)上


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大城タケさん(左)の戦争体験談を真剣に聞く玉城中の坂本詩乃さん(中央)と浜比嘉美月さん=1月14日、南城市玉城の大城さん宅

 玉城村(現南城市)字百名の大城タケさん(84)は沖縄戦当時17歳で、玉城国民学校の高等科を卒業したばかりでした。百名で家族と生活していました。空襲や艦砲射撃など、戦争が激しくなり始め、1945年5月下旬ごろ、摩文仁村(現糸満市)へ避難するように日本兵から告げられます。家族と離れ、友達9人と避難しますが、隠れていた岩陰に砲弾が撃ち込まれ、友達を失いました。

南城市立玉城中学校2年の坂本詩乃さんと同1年の浜比嘉美月さんが話を聞きました。
  ◇    ◇
 百名は静かな所で、とても良い場所でした。旧暦の3月3日には浜下り、ほかにも綱引きやいろいろな行事があって楽しい、住みやすい所でした。夏は暑くても戸締まりをせず、縁側に寝るぐらいで、毎年8月には村芝居が盛大に行われました。家族は私と兄弟と合わせて5人、祖父母、両親の9人で生活していました。
 44年7月ごろ、百名にも日本軍が来て、10月に父は防衛隊に取られてしまいました。
 それまでは本当に戦争が来るのか分からないくらい静かでした。
 私は学校では主に防火訓練や竹やり訓練をしていました。戦争が来るとか、怖いとか分からずに、兵隊さんの言うとおりに協力していました。

※続きは2月22日付紙面をご覧ください。
→<未来に伝える沖縄戦>すがる少女払って避難 大城タケさん(84)下

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