<未来に伝える沖縄戦>登校中、10・10空襲襲う 知念一郎さん(78)〈1〉


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10・10空襲や地上戦の様子を語る知念一郎さん(右端)の話に聞き入る(同2人目から)谷口舞さん、金田星花さん、川満乃愛さん=14日、那覇市天久の琉球新報社

 宜野湾市の知念一郎さん(78)は8歳のころ、本部町で空襲を経験し、家族で今帰仁村までさまよい歩きました。その後4カ月余も収容所での生活を余儀なくされました。知念さんの戦争体験を陽明高校2年生の川満乃愛さん(17)、金田星花さん(17)、谷口舞さん(17)が聞きました。

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 1943年、本部国民学校に入学した。教室の黒板の上には大麻と呼ばれるお札が張られ、「天照大神」と書かれていた。必ず大麻を拝んでから授業が始まった。運動会も「戦争ごっこ」のようだった。棒倒しや騎馬戦などの競い合う性質の種目が多かった。アメリカやイギリスのことを「鬼畜米英」と教え、憎しみを持たせる教育だった。
 校舎の半分は日本軍が使っていた。教室は足りず、上級生と下級生は時間帯を分けて授業を受けた。校門のそばには奉安殿があった。中には天皇・皇后両陛下の御真影と教育勅語が入れられていた。教室などは木造だが奉安殿だけはコンクリート製だった。校門をくぐる時は奉安殿に最敬礼をした。多くの男の子は「大きくなったら陸軍大将になる」と言っていた。僕もそうだ。今考えると、全てが軍国主義の教育だった。

 《44年10月10日、「10・10空襲」と呼ばれる米軍の大空襲が沖縄を襲います》

 僕にとって初めての戦争体験だった。国民学校へ登校する途中だった。警報が響いていたが、まさか戦争だとは思わなかった。「今日は日本軍が演習しているな」と空を見上げながら歩き続けた。近くの芋畑で農作業をしていた男性が「おい、隠れろ」と叫んだ。岩陰に隠れ、しばらくじっとしていると、自宅のある野原の街から煙が上がった。伊江島や瀬底島、水納島が見えた。日本軍の飛行場があった伊江島は総攻撃で真っ黒い煙に包まれていた。「島全体が燃えている」と感じた。初めて、本当に戦争が起きたことを認識した。3時間余りうずくまっていた。

※続きは1月24日付紙面をご覧ください。