<未来に伝える沖縄戦>空腹抱えて山中を転々 神谷房徳さん(85)〈4〉


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久志に疎開後、ふるさとに帰れるようになるまでの苦労を語る神谷房徳さん=1月28日、八重瀬町

 《久志村(現名護市)に疎開した東風平村(現八重瀬町)の人々に食糧を届けた神谷房徳さん(85)は、米軍の本島上陸が迫り、家族と山中で避難生活を送ることになりました》

 木と木をヤマカンダーのつるで結び、ススキをかぶせて屋根代わりにして生活していた。4月の初めごろ、久志村でイモがないか探しにいくと、ジープ(小型四輪駆動車)に乗った4人組の米兵に見つかった。そのまま動かず座っていると、英語で何か言ってくる。「山の中に妹や弟が待っている。今死んだら大変なことになる。助けてください」とおじぎをしながら言っていたら、殺さないでジープに乗って去っていった。アメリカーは戦争なのに子どもは殺さないで助けると知り、保護されるときもあまり心配しなかったね。
 久志の日本海軍は、軍艦を沈められてね。海軍は海の上で戦争するから山の中では子どもと同じだ。あるとき、ピストルの音が聞こえて怖くて茂みの中に隠れていたら、通り過ぎる者がいた。アメリカーかと思ったら日本軍の兵隊が民間の食糧を盗んでいく。生き延びるために、助けるべき民間の食糧を横取りしたんだ。もう情けなくなったよ。
 山の中でも砲弾は降ってきた。砲弾が近くなると、敵に居場所が分かったんじゃないかと思ってね。3月から6月まで久志岳と辺野古岳を転々としていた。6月20日ごろ、家族といとこ、集落の知り合いで島尻に戻ることにした。山から下りて恩納村の名嘉真に続く田んぼのあぜ道で、遠くから鉄砲を構えてこっちを見ているアメリカーがいた。逃げたら撃たれると思い、ゆっくり歩いていたらアメリカーと日系2世の通訳が近づいてきて「絶対住民を殺さない」と話し掛けてきた。2世の言うことを聞いたら何も心配しなくていい、と思って石川の収容所に入った。

※続きは2月15日付紙面をご覧ください。