<未来に伝える沖縄戦>砲弾避けてガマで生活 冨名腰義春さん(81)〈1〉


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当山の野戦病院壕の前で冨名腰義春さん(右)の話を聞く仲尾和香奈さん(中央)と、石川幸夏さん=3月26日、浦添市当山

 宜野湾市新城に住む冨名腰義春さん(81)は、戦時中を出身の浦添市当山にあるガマに避難して過ごし、6月23日を過ぎた後も8月ごろまで暮らし続けました。浦西中学校2年の仲尾和香奈さん(14)と石川幸夏さん(14)が、今も残るガマの周辺を歩きながら、冨名腰さんの体験を聞きました。

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 幼い時は浦添に住んでいたけど、小学校3年生の時に、ひいおじいさんとひいおばあさんがいる那覇市の西新町に転校した。だけど、戦争が始まるから本籍のある浦添村(当時)の当山にまた移動した。ちょうど小学校4年生、11歳のころだった。
 当山から牧港の方を見ると軍艦が来ているのだけど、砲弾はこちらまでは届かないから、怖いとも思わずにただ見ていたよ。家の横の石垣に座って砲弾が落ちて煙が上がるのをじっと見ていてね、怖いとも思わなかった。激しい戦争になると思わなかったし、日本の兵隊は勝つものだと思ってからね。
 当山には砲弾は来なかったけど、焼夷弾は落ちてきた。まさかこちらに攻め込まれるとは、と思ったよ。火の海になった。私の家にも火が回ったが、当時家に日本の将校を泊めていて、その将校が床の間に置いていた父の三線を燃える前に拾ってくれたことがあった。

 《戦争が激しくなると、冨名腰さんの家族は、いとこの家の井戸から入ることのできるガマに避難するようになります。そのガマは日本軍と住民が使う出入り口が別でした》

 今はもう知っている人も少ないが、当山のバイパス沿いに今も小高い森がある。その森の下にはガマがあって、日本軍が使っていたのだけど、そこにいとこの家の井戸からつながっていた。当時9歳の妹ツル子の手を引き、83歳のひいおじいさん、おじいさんの営む旅館のおかみさんだった70歳すぎのひいおばあさんをおぶって井戸からガマに入った。

※続きは3月28日付紙面をご覧ください。