<未来に伝える沖縄戦>頼りの父と南部避難 城間美津子さん(79)〈1〉


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家族と一緒に戦場を逃げ回った体験を語る城間美津子さん(右)と話に聞き入る古波津優貴君(中央)、浦崎鈴菜さん(左)=3月11日、那覇市内

 現在、那覇市与儀に住む城間(旧姓・棚原)美津子さん(79)は、9歳の時に沖縄戦を体験しました。当時、真和志村古波蔵(現・那覇市古波蔵)に、父・盛慶さん、母・スミさん、姉・春子さん、妹・政子さん、弟・盛春さん、妹・澄子さんと一緒に暮らしていた城間さんは米軍の沖縄本島上陸後、南部へ避難します。避難の時の様子や、父・盛慶さんとの別れたときの思いなどを、神原中学校3年の浦崎鈴菜さん(14)と古波津優貴君(14)が聞きました。

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 1944年10月10日に大きな空襲があった。姉の春子と一緒に水をくみに行っている時に近所の人に「空襲だから早く帰りなさい」と言われた。家に帰って外を見てみると、今の小禄から西町あたりがすごい炎に包まれていた。天が炎で赤くなったり、煙で黒くなったりしていた。あんな大火事は初めて見た。
 子どもだったから、戦争がどんなものか分からなかった。けれど10・10空襲の後、お父さんがお母さんに「あれが戦争の始まりだよ。戦争で大変なことになるよ」と話していた。私の家は新聞を取っていたから、近所の年寄りたちはお父さんに「戦争はどうなっているか」と聞いてきたが、「勝っているよ」と言って安心させていた。

 《1945年4月1日に沖縄本島に米軍が上陸し、本島での本格的な戦闘が始まりました。米軍の攻撃が激しくなる前に逃げないといけないということで棚原さんの一家は南部を目指しました》

 4月中旬、南部へ逃げ始めた。10・10空襲の時、避難してきたほかの人たちと一緒に逃げたが途中でばらばらになってはぐれてしまった。南部に逃げる途中に真玉橋という橋があった。渡ろうとすると橋がなかった。日本兵が逃げる時に橋を壊していったみたい。壊されて川に落ちたがれきの上を私たち一家も含め避難する人は渡っていった。

※続きは4月25日付紙面をご覧ください。