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「戦争が嫌なら武器は捨てて」 被爆2世の池原さん、普天間ゲート前に立ち続ける きょう長崎原爆の日 語らずに早世した父への思い


この記事を書いた人 Avatar photo 與那嶺 松一郎
父親への思いを語る池原順子さん=7月27日、宜野湾市内

 長崎は9日、米軍の原爆投下から78年の「原爆の日」となった。池原順子さん(72)=宜野湾市=は被爆2世で、父親は徴用先の長崎の三菱造船所で被爆し、49歳で早世した。池原さんは病で苦しんで亡くなった父親を思いながら普天間飛行場のゲート前で米軍基地撤去を訴え続けている。「本当に戦争が嫌なら武器を捨てるべきだ」と語り、核も基地もない平和を願う。

 父親の亀助さんは個人タクシーの運転手で「普段はとっても良いお父さん」だった。米兵の事件事故が相次ぐ中、娘たちが被害に遭わないか、いつも心配していた。しかし、酒を飲んで帰ってくると大声で軍歌を歌い、子どもたちを座らせ手拍子をさせた。ベルトで殴られたこともある。

 助産師だった母親への憧れもあり、看護師を目指した。しかし、父親の猛反対で県内の看護学校に通えず、家出同然で上京。准看護師の免許を取得した。その頃、父親から「戻ってきてほしい」と懇願された。胆のうがんを患い、黄疸おうだんや腹水の症状が出ていた。病院に寝泊まりし付き添った。痛み止めが効かず、「戦争で死んでいた方が良かった」と言うほどの激痛に苦しみ、42日間の闘病の末、吐血し昏睡状態となって亡くなった。

 亀助さんが被爆者であることを知ったのは、入院手続きの時に被爆手帳を見つけたためだ。しかし本人には何も聞けず、地域の人には「長崎に行っていたみたいだよ」と遠回しに聞いた。何も語らなかった亀助さん。死後、池原さんは足跡をたどり続けてきた。

長崎で被爆し、49歳で亡くなった父の亀助さん

 長崎に行っていた人の話を聞きに北部まで足を運んだこともある。父親はどんな思いだったのか―。「日本が起こした戦争に対し、どこにもぶつけられない思いがあったんじゃないか。軍歌も、どちらかというと戦死した人を弔う歌で後に禁止されたと聞く。言葉の端々にやっぱりそういう思いがあったように思う」

 池原さんは、明治以降日本がアジアの国や地域を併合し、侵略戦争を続けたことについて「沖縄も(アジアへの)加害者になった」と振り返る。戦後も、米軍基地の負担を沖縄に押し続ける日本の無責任への憤りと失望が、池原さんを追い込んだ。「日本を抜けるしかない、と思うに至ったんです。沖縄はもう被害者にも加害者にもなりたくない。憲法9条の平和は、日本にいる限り実現できない」

 米中対立を背景に軍備増強が沖縄で進む状況について「耐えられない」と怒りをぶつける。戦禍をくぐり抜け、生きてきた父親に紡がれた命を意識するからこそ、諦めることはできない。両親が亡くなった年を超えてもゲート前に通い、独立のプラカードと共に「戦争をしてはいけない」と声を上げ続ける。
 (中村万里子)