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【寄稿】日米兵・民間人が見たサイパン戦(上) 民間人巻き込む悲劇 沖縄戦で大規模に実践 吉永直登


【寄稿】日米兵・民間人が見たサイパン戦(上) 民間人巻き込む悲劇 沖縄戦で大規模に実践 吉永直登 日本軍の攻撃を警戒し、戦車に身を隠しながら山中を進む米兵たち=サイパン、1944年7月(米国立公文書館所蔵)
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 サイパン島の在留邦人約1万人が犠牲となったサイパン戦の陥落(1944年)から7月7日で80年となった。ライフワークで「移民」や「戦前・戦中の南洋」の取材を続けているジャーナリストの吉永直登さんに、サイパン戦と沖縄戦のつながりや、日米両軍の関係者によるサイパン戦に関する証言・記録の違いなどについて寄稿してもらった。


 「戦火に逃げ惑う住民」「米軍の沖縄上陸必至か」

 琉球新報が2004~05年の「沖縄戦60年」の節目に発行した「沖縄戦新聞」。私も勉強に使った新聞体裁の企画記事だが、第1号の大見出しは「サイパン陥落」だった。日付はサイパンの日本軍が実質壊滅した1944(昭和19)年7月7日。歴史を繰り返さない決意を込め編集したという紙面は、サイパンをスタート地点に置いていた。臨場感あふれる紙面は、サイパン戦と沖縄戦の間に強い関連があることを、私にあらためて認識させてくれた。

南洋の歴史

 私は12年前から「移民」と実質日本領だった「戦前の南洋」に関心を持ち、会社の休日を利用して関係地に出向き取材を続けた。南洋移民を多く出した沖縄や本土・東北地方などに足を運び、5年前、サイパンの隣にある「テニアン島」の開拓移民の歴史を描いた『テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島』(あけび書房)を出版した。今回刊行した『忘れえぬサイパン 1944』は、その第2弾。新たに取材し直したのは、サイパンで起きた地上戦の惨劇が、移民の生活を中心に描いた『テニアン―』とは別の意味で、私にとって字にしなければならないテーマだったからだ。

 太平洋戦争前の製糖業で潤った時代、米軍の出現と地獄の地上戦、戦闘後の収容所生活や山中に潜んだ敗残兵のこと。本書では時系列でそれらを描いた。中でもサイパン戦の悲劇の象徴とされる、北部の断崖で起きた民間人の「集団投身自決」は、手厚く日米兵と民間人、さまざまな人たちの証言と記録を集め、実像に迫った。

米軍に保護される女性や子どもたち=サイパン、1944年6月(米国立公文書館所蔵)

 サイパン戦とは何だったのか。太平洋戦争の中でどのような位置付けなのか。

 まず挙げなければならないのは、島が大型戦略爆撃機B29による日本本土空爆の中核基地になったことだろう。連日のように日本本土と往復したB29。東京、大阪、名古屋はもちろん、地方の中小都市に至るまで都市を、町を、工場を火の海にした。絶え間なく続く空襲は、日本社会を戦争初期の浮かれ気分など全くない暗黒の時代へと変質させた。ただ、私は取材と執筆を進める中で、同じくらい太い「もうひとつの道」がサイパンから延びていることも感じた。道の先には沖縄があった。

サイパンから続く沖縄

 当初サイパン戦の取材に集中していた私だったが、執筆開始後、沖縄との関係が気になりだした。そこでまず向かったのは、本島北部の離島、伊江島だった。伊江島が「沖縄戦の縮図」と言われていることを知り、サイパン戦との比較によいだろうと考えたのだ。伊江島から本島に戻った私は、那覇、本島南部と戦跡巡りをした。それは私にとって、沖縄戦の理解不足も痛感した旅になった。東京の自宅に戻ってからさまざまな本を買い、NHKがインターネットで公開している戦争の証言記録なども見て勉強し直した。その上で沖縄戦とサイパン戦の比較を日米両軍に分け試みた。

 米軍。米軍はサイパンを含む太平洋の小島、環礁の戦いの経験を大いに生かしたと感じる。上陸作戦では一つのパターンをつくっていた。まず空爆を行い、同時に多数の写真を空撮、地図をつくる。徹底した艦砲射撃で事前につぶせる日本軍施設は全てつぶす。うその部隊を使って日本軍を揺さぶった後、一気に上陸し、すぐに飛行場を占拠する。米軍はそれまでに得たノウハウを沖縄につぎ込んでいた。

 地上戦では、経験を生かしたでは済まされない話が次々に出てくる。火炎放射器、ナパーム弾、黄リン弾。米軍は太平洋の戦いの中で開発した殺傷性、残虐性が高い兵器を沖縄で大量に使用した。「馬乗り攻撃」と呼ばれる壕(ごう)内の日本人を一掃する非道な手段も、それまでの戦いで得た知識を生かしたと思われる。

 日本軍はどうだろう。海岸で米軍の上陸を阻止する作戦が、太平洋の島々で次々と失敗した日本軍。沖縄では、米軍をあえて無傷で上陸させ、内陸で叩く作戦に打って出た。これなどは、サイパンなどでの経験を踏まえたものと言えるだろう。

 ただ、私はそれとは別のことで、日本軍における沖縄とサイパンの関連性を強く感じた。戦場が沖縄に向かう中で「民間人との関係」は明らかに変質した。

軍と民間人の関係

 沖縄戦では多くの学校単位の部隊がつくられた。男子は「鉄血勤皇隊」や「通信隊」が編成された。女子は主に看護活動に当たり、有名な「ひめゆり学徒隊」以外にも多くの学徒隊が戦場に配置された。男女とも学校単位の動員が当たり前のように行われた。

吉永直登著『忘れえぬサイパン 1944 日米兵と民間人の目で描いた戦いの真実』(同時代社・税込み1760円)

 一方、サイパンはどうだったか。日本の民間人の約2・5人に1人が命を落としたとみられるサイパン戦。多くの若い命が失われたことは同じだ。しかし違うこともある。それはサイパンでは、学校単位の動員、部隊編成が行われていなかったことだ。サイパン実業学校の生徒たちは、戦闘下で日本兵の弟分のような存在になり、危険な任務を背負わされた。10代の女性の中には野戦病院の看護婦になった人もいた。ただ、それは戦いの流れの中で組み込まれたものであり、最初から計画的に編成されたわけではなかった。

 そこで私の頭に浮かんだのが次の言葉だった。

 「日本軍はサイパンで民間人の戦闘利用を覚えた。そして沖縄で大規模に実践した」

 サイパンから沖縄へ向かった悲劇の道の正体は、これではないか。本来、民間人を守るべき立場のはずの軍、軍人が、民間人を巧みに戦いに巻き込んでいく。いつしか恐ろしい存在になっていく。軍と民間人の関係の変化。それこそサイパンから沖縄に戦場が移る中で、住民の犠牲をさらに増やした大きな理由だったのではないか。私はそう考えている。

 サイパン戦は「もうひとつの沖縄戦」と呼ばれることがあるという。その通りだろう。二つの戦場で起きた悲劇と、その関係性を知ることは、もちろん沖縄の人たちだけのテーマではない。日本国民全体があらためて学ぶべき教訓に違いない。

 (次回は11日掲載)


 吉永 直登(よしなが・なおと) 1963年生まれ。NHK記者を経て1991年に共同通信社に入社。40代後半からライフワークで「移民」「戦前・戦中の南洋」の取材を続け、2019年に『テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島』を出版。移民の歴史について学ぶ団体「移民と旅する社」を主催。