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<書評>『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』 戦の元凶と実態に迫る


<書評>『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』 戦の元凶と実態に迫る 『首里城と沖縄戦 最後の日本軍地下司令部』保坂廣志著 集英社新書・1012円
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 本書は首里城と、その地下にあった第32軍司令部壕から見た沖縄戦を描いている。

 日本軍の当初の計画では司令部壕は南風原の津嘉山壕の予定であった。しかし1944年の10・10空襲で米軍の威力を思い知らされ、津嘉山壕では耐えられないと判断し、より強固な岩盤の首里城の地下に変更した。本書によれば、高台にある首里城は通信に適し、戦況をより把握できること、歴史的建造物の首里城は攻撃されないことなどが移転の主な理由とされた。

 44年12月から掘り始め、翌年3月に地下30メートル、高さ2メートル、幅4メートル、総延長1キロの司令部壕が完成した。壕掘りは地元住民や240人の学徒も動員されて極秘扱いに行われた。首里城はオオタニワタリで偽装され、古き都の首里は軍都化し、沖縄戦の心臓部となった。

 本書は米軍の調査報告書《インテリジェンス・モノグラフ》、従軍記者、捕虜、戦死者の手記やメモ、牛島司令官、長参謀長、八原高級参謀、島田知事の発言などから沖縄戦の悲劇の元凶とその実態に迫っている。その上で牛島ら司令部幹部の責任を追及している。

 壕内の様子をはじめ、水際作戦から持久戦への変更、方言禁止、住民のスパイ視、総攻撃作戦の失敗、南部への撤退、師範、水産、商業学校などの学徒200人、朝鮮人を含む30人の従軍慰安婦の存在を明らかにしている。

 壕を爆破した牛島司令官らは5月27日に南部へ撤退する。その途中、津嘉山壕に3日間滞在した。米軍はその情報を基に牛島らの南部への退路を断つべく、山川の宇平(うひー)橋に集中砲火を浴びせた。橋は壊滅し、無数の避難民が犠牲となった。宇平橋は死体を山積みして渡る《死の橋》《死の十字路》と化した。

 沖縄県は首里城の再建と司令部壕の同時公開に向けて取り組みを加速させている。本書は首里城や司令部壕以外の重要性も指摘し、虐殺された捕虜や兵士の遺骨がその周辺に埋まっている可能性を示唆している。司令部壕公開を前に時宜を得た好著である。

 (大城和喜・元南風原文化センター館長)


 ほさか・ひろし 1949年北海道生まれ。琉球大学法文学部元教授。沖縄戦を中心とした執筆、翻訳を行う。主な著書に「戦争動員とジャーナリズム 軍神の誕生」「硫黄島・沖縄戦場日記」など。