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<書評>『石の声は聴こえるか』 スージグァに漂う記憶の淵


<書評>『石の声は聴こえるか』 スージグァに漂う記憶の淵 『石の声は聴こえるか』崎山多美著 花書院・2200円
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 崎山多美の最新エッセイ集がこの「五月十五日」、私たちに届けられた。ふるさとのシマにたれこめる水と闇の幻。基地の街の路地裏(スージグァ)に漂う記憶の淵。ゆるゆる、ざわざわと、読み手を軽やかに引きこむ語り口ながらも、執筆40年以上を経た作家の思いは、やはり深いこだまを心に残す。この世とあの世をまたいで不意に到来した何者かの声を、ひたむきに聴き届けること。シマコトバが語るひとりひとりの生と死に、言葉にならない声や姿の気配にさえ、体ごと触れていくこと。

 崎山は、「復帰」前後の混乱期に、書くことを意識した作家である。ただ、本書のエッセイが書き継がれる間にも、沖縄「戦後」ゼロ年の植民地状況は混迷を増すばかりだった。「私たちは、これからどこへ連れていかれるのだろう」。倒錯した戦世(イクサユー)の今を表現することの葛藤は深い。

 うるま市で8年前に起きた、元米兵軍属の凶行では、「書くことへの疑念」から、黒人米兵とコザをつなぐ自作執筆の「想像力が挫(くじ)かれた」とまで作家は告白する。しかしだからこそ、他者の声を体でまともに受けとめることから「ゆっくりと現実に立ち向かう思考」が芽生える未来を、崎山は願う。

 作家個人の心象に刻まれた創作夜話が明かされる点も、本書の魅力である。シマの濃密な自然描写で「南島的気配」をふりまく島尾敏雄の作品に、若き日の自分が抱いた畏敬と疑念。西表の自然をめぐる幼少期の「怖かった」体験まで遡(さかのぼ)って、既成の南島イメージや標準的日本語の支配から「私のシマ」を奪い返すべく、その後、作家が仕掛けていった創作上の闘いを説くくだりは、身を切るほど張りつめた批評性を宿している。

 そしてコザ。国籍も出自も雑多な人々が吹き寄せられるこの街に、崎山自身も長く暮らしてきた。余命短い母を付ききりで看病しながら、「すべて母の目を意識してイメージした、コザの記憶の物語」を書こうと決め、『クジャ幻視行』が成ったことを明かす端正な筆致も、忘れがたい奥行をたたえている。

 (真島一郎・東京外国語大学教員)


 さきやま・たみ 1954年、西表島生まれ。琉球大国文科卒。88年に「水上往還」で第19回九州芸術祭文学賞。主な著書に「ゆらてぃくゆりてぃく」、エッセイ集に「南島小景」など。