前回に続き「おまえがいうか!=棚上げ」問題を考えたいと思います。
知念ウシさんは、「もっとも精神的にしんどいのは、沖縄人警察官や機動隊員に向かって日本人(やまとぅんちゅ)が激しい怒りの悪態の言葉を吐いているのを聞かされること」という、反基地運動を行っている女性グループのメンバーの言葉を紹介しています(知念ほか『沖縄、脱植民地への胎動』44頁)。米軍基地前や基地建設現場などでの緊迫したせめぎ合いのなかで、基地反対派の日本人が基地警備などに派遣された沖縄人警察官に向かって、「政府の手先」などと激しく罵る場面などを想定するとよいでしょう。この女性メンバーの感想は、ポジショナリティを考えると妥当なものに思えます。いったい日本人の言動のなにが沖縄人を疲弊させるのでしょうか。
政治上の罪
ポジショナリティ論の源流のひとつに、ナチスのユダヤ人虐殺について、ドイツ人全般の罪や責任を論じたものがあります。哲学者ヤスパースや、アーレントらによる議論です。ヤスパースは、ユダヤ人虐殺に直接かかわったドイツ人の罪を「刑法上の罪」とし、かかわらなかったドイツ人の罪を「政治上の罪」と名づけました。政治上の罪とは、直接虐殺にはかかわらなくとも、そのような蛮行を許した社会の一員であったことに対する罪で、すべてのドイツ人に存在すると論じました。
のちにアーレントは罪の議論を責任と捉え直して、個人的責任(刑法上の罪に対応)と集団的責任(政治上の罪に対応)とを分けました。政治上の罪は集団的責任へと転換され、ユダヤ人虐殺に関わるドイツ人の罪の議論は、すべての集団における責任の議論へと普遍化・一般化しました。ここでアーレントは、集団的責任について、(1)個人が行なっていないことに対して責任がある。(2)責任がある理由は、自発的行動によっては解消できないしかたで、個人が集団に属している。(3)思いのままに解消できるものではない成員としてのありかたが、責任の理由。と論じています(アーレント「集団の責任」)。
もしある結果(たとえば他集団に不利益をもたらすような)に対して個人的な選択がかかわっているならば、それは個人の選択と因果関係がある個人的な責任となります。たとえば民族虐殺の場合、虐殺を決定した者、その指示を取り次いだ者、指示に従ってユダヤ人を輸送した者など、それぞれのかかわりの度合いに応じて個人的な責任が問われます(戦争犯罪裁判も原則的にはそのようなものでした)。一方で、虐殺に直接はかかわっていなくとも、ナチスに対して消極的であれ支持を与え、蛮行を許し、ユダヤ人の犠牲の上に成り立つ社会の一員として薄く広い利益を享受していた責任が、集団的責任として問題化されたのです。
アーレントが集団的責任の要件として、個人的行為や選択の不在と、集団から個人が自発的に離脱できないことを挙げていることは重要です。もし個人の選択でその集団から離脱できるならば、他集団への加害の当事者性も、離脱する/しないという個人の選択の結果であり、究極には個人的な責任となるということです。つまり、自分が決定に関与せず、抜け出したくとも個人では離脱困難な集団の加害性について問われるのが、集団的責任ということなのです。これは、個人にとっては(決定に対して)身に覚えのない加害についての責任という感覚でしょう。
しかし一方では、同様に決定に対して身に覚えのない被害を受ける人々もいるのです。それらの不均等さがもたらす利害は現に存在していて、個人に降りかかっています。ポジショナリティはその点を問題とするのです。
特権を持つ側
基地反対の現場にいる日本人は、個人として反対という選択を行なっていても、彼女/彼らは個人の意志で日本人であることを解消できません。反対運動に疲れたり、身体や命の危険を感じれば、飛行機に乗ってヤマトに戻れるのですから。ヤマトに戻れば周囲の日本人と同様の生活を翌日から送れます。沖縄出身の沖縄人として沖縄差別を受けることもありません。この日本人としての扱いは、本人が拒否しようとしてもできないものです。
これらは、沖縄人警察官や機動隊員には存在しない特権です。沖縄人警察官はその業務内容にかかわらず、沖縄人というポジションにあり、基地被害を他の沖縄人と同様に受け、ヤマトに行けば「沖縄の人」と扱われるのです。
つまり、特権を持つ側が「おまえは私の特権に貢献している。けしからん」と罵(ののし)っているのです。不条理きわまりない情景です。反対運動に参加している日本人には個人的選択に基づく個人的責任はないかもしれません。しかしすべての日本人にはここで述べたような集団的責任があります。沖縄人警察官や機動隊員に悪態を吐いた日本人は、この集団的責任を棚上げし、彼らが沖縄人であることを無視し、基地を守る業務に従事していることのみを批判しているのです。双方のポジショナリティを忘却・消去しているからこそ可能になる態度です。
日本人は沖縄人をなにひとつ批判してはならない、などといっているのではありません。沖縄人同士であれば、基地の拡充や維持にかかわる個人的選択を批判することは、建設的な対話や議論に発展しえます。同じポジショナリティにあるため、ポジショナリティの相違は問題となりません。
しかし日本人が沖縄人に対して批判する場合、自身の集団的利害や責任の問題を避けられません。それらを棚上げして、あたかも沖縄人同士であるかのように罵ることは、その無頓着さと特権の忘却から、沖縄人を疲弊させると思われるのです。罵る前に、やるべきこと、いうべきことがあるはずなのです。それらを飛ばして正義や激情に身を任せられるのもまた、特権なのです。
集団的責任の棚上げは、基地に反対する者には沖縄人も日本人も関係ない、という個人的選択のみに基づいた感覚をさらに呼び起こすかもしれません。その結果、沖縄人へのなり代わりや越境、言葉どろぼうのような事態に至ることもあります。次回はこの点を考えてみたいと思います。
(毎月第4木曜日掲載、次回は10月24日)
池田 緑(いけだ・みどり) 1968年富山県生まれ。大妻女子大学社会情報学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は社会学、コロニアリズム研究(沖縄と日本を中心に)、ジェンダー研究、ポジショナリティ研究。著書に『ポジショナリティ』(勁草書房)、『日本社会とポジショナリティ』(編著・明石書店)などがある。