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越境行為 日本人は代弁できず 沖縄人が「沖縄の運動」決定 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>4


越境行為 日本人は代弁できず 沖縄人が「沖縄の運動」決定 池田緑<ポジショナリティからみる沖縄と日本>4
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 ポジショナリティが曖昧になることで起きる混乱のひとつは、日本人による越境行為です。親川志奈子さんは、辺野古の新基地建設に抗議する座り込みテントを訪れた際の奇妙な体験を書いています(『N27』8号、124ページ)。親川さんと友人たちは、偶然、辺野古で平和運動についてのレクチャーを行っている場面にでくわし、せっかくなのでスタディーツアーに来ていた日本人の学生グループと一緒にレクチャーを聞いたそうです。

 説明していたのは“本土”出身者で、「本土の人はもっと沖縄問題を知るべきです、これは沖縄の問題ではなく日本全体の問題なのだから」と語り、親川さんたちも頷(うなず)きながら聞いていたのですが、最後に「基地はどこにもいらないのです。私たちは痛みを他人に押し付けることはできません、これが沖縄の運動の精神です」と語るのを聞き、胸に引っかかりを覚えたそうです。親川さんは、基地を沖縄におく決定をしてきたのは日米両国なのだから、その撤去主体も日米であるはずなのに、日本人と沖縄人を「私たち」という言葉で同一視することでヤマトの関与が問われないことになってしまう点を、引っかかりの核心と論じています。

「私たち」とは

 親川さんも指摘するように、ここで重要なのは「私たち」という主語です。この「私たち」とは、誰を指しているのでしょうか。説明者(日本人)のポジショナリティを考えると、ポジショナリティにかかわる論点は大きく三つあります。ひとつはポジショナリティに無頓着になると、日本人があたかも沖縄人になり代ったような言動をとってしまう可能性です。日本人は「沖縄の運動」を代表して語る位置(ポジション)にありません。なぜなら、そのような運動が必要となる状況を作りだし、利益を得ている存在だからです。日本人が沖縄人に課している基地負担に対して、どのように「沖縄の運動」を組み立てるのかは、沖縄人が語り、決める問題です。日本人は受益者というポジショナリティにあるのですから、その決定に主体的にかかわるのはフェアではなく、資格も欠いています。日本人が「沖縄の運動」を代表・代弁することは越境(越権)行為であり、沖縄人の言葉を奪うものです。

 実際、この説明者は「どこにも基地はいらない」という見解が沖縄の運動の精神であると語ることによって、たとえば県外移設論のような沖縄の声を選別して黙殺しています。それらを個人の意見として語るならともかく、「沖縄の運動の精神」とまでいう場合、「沖縄の運動」における「沖縄の」の意味が問題となるでしょう。これが「沖縄人の運動」であれば、この説明者は沖縄人の言葉を奪って自分のものとする「言葉どろぼう」ということになります。

「他人」とは

 ただ、「沖縄における運動」に日本人が参加してきたことも事実です。沖縄人と日本人が対話し共に運動の方針を決めたこともあったでしょう。運動参加経験に基づき、日本人のポジションから、沖縄の運動について語る余地はあるかもしれません。しかしそうなると、今度は「痛みを他人に押し付けることはできない」という発言と矛盾します。これが第二の論点です。

 この「他人」とは誰でしょうか。文脈からヤマト(日本人)が含まれる可能性は高いでしょう。そうなると、この説明者は自分自身を「他人」と呼び、さらに痛みを自分から自分へと「押し付ける」事態を想定していることになり、わけがわからない発言となってしまいます。考えられる可能性は二つで、ひとつは自分を沖縄人と信じている場合です。しかし突然日本人が沖縄人に転生したか、沖縄人の生き霊が日本人に憑依(ひょうい)して語りだした、などというオカルト的なことでもないかぎり、想定しにくい解釈です(それに近い主観をもつ日本人もいそうですが)。

 より現実的な解釈は、自分自身を日本人と思っていない可能性です。あるいは日本人にまつわる悪徳(基地の押し付け)から無縁な存在、すなわち良心的日本人、あるいは日本人/沖縄人という構図を超越した第三者的存在だと信じている可能性です。これらは当事者意識が欠落した状態です。しかしどのように自己規定しても、日本人としての集団的利益は消滅しておらず、日本人としての特権は存続しています。これは厳然たる事実です。ポジショナリティを忘却することで、この事実も忘却されてしまうのです。

 そもそもこの日本人説明者は、「他人に痛みを押し付ける」ことなどできません。なぜなら、その痛みとは沖縄人の痛みであって、日本人の痛みではないからです。存在しないものを押し付けることはできません(この点は以前より野村浩也さんが指摘しています)。しかも沖縄人を代弁することによって、「他人に痛みを押し付けるか否か」という沖縄人の選択の機会までも、事前に奪っているのです。

利益の維持

 これもポジショナリティの忘却の結果であり、日本人の集団的利益を維持する効果をもたらします。これが第三の論点です。「どこにも基地はいらない」「痛みを押し付けない」という見解は、論理的にヤマトへの基地返還を拒絶するものです。基地負担を免れていることは日本人の利益なのですから、この見解は日本人の利益を護(まも)るものです。本人が意図したかはともかく、この説明者は日本人の利益維持を目論(もくろ)む言葉を発していたともいえます(しかも「沖縄の運動の精神」として)。沖縄人になり代わるかのような越境的な言動によって、日本人の集団的利益が維持されうるのです。

 親川さんはこの場に偶然居あわせたにすぎず、これは本質的には日本人同士のコミュニケーションです。ポジショナリティを無視した越境的な語りによって、日本人同士が集団的利益を維持する結束を強めていた可能性があるのです。もしこの説明者が日本人としてのポジショナリティを明確にして語ったならば、日本人同士で当事者としての責任や選択について議論が可能となったかもしれません。ポジショナリティを無視した語り方が、その機会を失わせた可能性もあるのです。

 このような議論に対しては、平和を求める運動に沖縄人/日本人という分断を持ち込むのではないかと疑問を感じる人もいるかもしれません。次回はその点を考えてみたいと思います。

 (毎月第4木曜日掲載、次回は11月28日)


 池田 緑いけだ・みどり) 1968年富山県生まれ。大妻女子大学社会情報学部准教授。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専門は社会学、コロニアリズム研究(沖縄と日本を中心に)、ジェンダー研究、ポジショナリティ研究。著書に『ポジショナリティ』(勁草書房)、『日本社会とポジショナリティ』(編著・明石書店)などがある。