軍命で自宅が作業員の宿に 木の実、ソテツで飢えしのぐ 松田菊成さん <未来に伝える沖縄戦>


軍命で自宅が作業員の宿に 木の実、ソテツで飢えしのぐ 松田菊成さん <未来に伝える沖縄戦> 沖縄戦当時を振り返る松田菊成さん=5月21日、読谷村立古堅中学校(ジャン松元撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 名波 一樹

 

 読谷村(当時・読谷山村)渡具知で生まれ育った松田菊成さん(88)=読谷村渡具知=は、米軍が上陸する1年前の1944年、古堅国民学校初等科の2年生で9歳でした。戦中は国頭村与那へと疎開し、久志で米軍に捕まりました。松田さんの体験を、古堅中学校3年の崎浜晴斗さんと池原克生さんが聞きました。


 《松田さんは1936年年5月20日に3人きょうだいの長男として生まれました。幼少期に父を亡くし、母と2人の姉とともに暮らしていました。42年、渡具知にあった海底電信局に守備隊が駐屯を開始しました。44年6月には日本軍が学校を兵舎や軍病院として使うようになり、授業は屋外で行われるようになりました》

 私が小学生の頃、校舎に日本軍が宿泊しており、学校の授業は屋外の大きな木の陰で行われていました。どんな授業かは覚えていませんが、「空襲警報聞こえてきたら、大人の言うこと良く聞いて、入っていましょう防空壕」と歌ったことを覚えています。年上は軍需工場で働かされたり、士官学校へ通ったりしていました。学校では芋や塩漬けの毛桃の弁当を食べていました。比謝の人は米、楚辺の人は魚を持ってきて、おかずを交換しました。

 1944年の7、8月ごろだったと思います。私の家は日本軍の命令で「朝鮮人軍夫」の宿泊所として使われました。私たち家族は部屋の隅で寝て、20人くらいの「軍夫」が寝泊りしていました。当時は「軍夫」の皆さんが何をしているのかは分かりませんでした。軍の機密事項なので日本兵に怒られるのも怖く、作業を見ることはできませんでした。彼らは軍事物資の荷揚げ作業のために働かされていたそうです。炊事場からご飯を運びながら、鍋に素手を突っ込んで食べていました。コーレーグースーを好んでいたのも覚えています。夕方や夜になると「アリランアリラン」と「軍夫」らの歌声も聞こえました。郷愁の思いで歌っていたのでしょうか。また、「軍夫」の班長と「ハトヤマ」という副班長が日本語を話すことができました。母がこのハトヤマさんとよく話をしていました。母が印鑑をなくしてしまった際に、ハトヤマさんが私たちの家に生えていたゲッキツの木で作った印鑑をくれました。

 《1944年10月10日、米軍による沖縄への広範囲の空襲「10・10空襲」がありました。第一撃は県内の飛行場を標的に開始され、読谷にあった北飛行場も爆撃を受けます》

 私たち家族は家の前にあった防空壕に身を潜めました。亀甲墓の中に隠れることもあり、電気もろうそくもないので、ヤギから取った油を古い布に浸して(明かりをともし)、ランプ代わりにしました。外に空気を逃がすことができないので、朝には鼻がすすで真っ黒でした。石大工だった叔父が比謝川の河口の絶壁に掘った壕に隠れたこともありました。

 「軍夫」らは空襲を初めは演習だと思っていたようでした。本当に戦がきたと分かって、(朝鮮人の言葉で)「私はもう死ぬのか」と言っていたのを記憶しています。私たちの入った防空壕は小さかったので、「軍夫」は木の下に隠れていました。空襲後、私たちの家は非常食(乾パンや米など)の倉庫として使われ、彼らはサーターヤー(製糖工場)に移りました。彼らがその後どうなったのか分かりません。

※続きは6月19日付け紙面をご覧ください。