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瘡蓋(かさぶた) 優秀・元田小百合(中部農林4年) 居場所見つけ自分に変化 <第66回県高校定通制・通信制生徒生活体験発表大会>中


瘡蓋(かさぶた) 優秀・元田小百合(中部農林4年) 居場所見つけ自分に変化 <第66回県高校定通制・通信制生徒生活体験発表大会>中 イメージ
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 この世界には実に様々な人々が存在します。凡人もいれば天才もいるし、不器用な人もいれば器用な人もいます。他人を崇拝する人、される人。善人や悪人、数え上げるときりがありません。そのなかで私は自分のことを「普通の人間」ではないと感じていました。特別に優れているというわけではなく、むしろみんなと違って「劣っている」と感じていたのです。

 私は生まれつき多くの病気や障害を抱えています。例えばアトピー性皮膚炎、ASD、皮膚むしり症。特にアトピーが酷く、体中が常に痒くて、掻きむしりすぎては肌を傷つけ、瘡蓋ができる日々を送っていました。薬を塗る手がベタベタして傷口もヒリヒリする。余計に痒くなることもあって、薬が嫌で母に反発することもありました。そういったなか、ふと気づいたのです。周りの人の肌には瘡蓋がまったくないことに。親も弟も、先生もクラスのみんなも誰もが綺麗な肌をしていました。「あぁ、私は普通じゃないのかな」と思わずにはいられませんでした。心にも瘡蓋ができたような感じがしました。

 病気だけでなく他人との関わり方も私にとっては大きな壁でした。幼稚園から小学1年までは誰とでも親しく接していたのですが、小学2年の頃から男子の嫌がらせが始まり、人と関わることが苦手になりました。悪口陰口、私の好きな物を否定し馬鹿にする。私が作った作品を目の前で壊されたこともありました。私の病気やハンディキャップ、ハーフである見た目や運動神経、声の質は私が望んでそうなったわけではありません。冷たい言葉や見下す言葉に何度も心を傷つけられ、「あいつはヤバい」という言葉が聞こえる度に心の瘡蓋は大きくなるばかりでした。

 嫌がらせに耐えられず、私は授業中教室から出て行くようになりました。物にあたり、池に砂利をばらまき、外の遊具で一人で遊ぶ。先生に平気で嘘をついて掃除をサボる立派な問題児になり、当然のように先生から指導を受けます。強い言葉で叱られ、時には無理矢理腕を掴まれ教室の外に連れ出されました。その姿を見て笑うクラスメイト。「あいつはヤバい」の声が心に刺さります。母に話しても「ちゃんと学校に行きなさい」としか言わず、イジメと説教の繰り返しで私は次第に学校が嫌いになり、いつもイライラしている自分自身が嫌いになりました。心の瘡蓋を無理に剥がしては掻きむしり、そして新たに瘡蓋を作るような日々が長く続きました。

 小学6年の頃、徳之島から沖縄への引っ越しが決まりました。母は表面上、私の気持ちを聞き入れていないようでしたが、私のために環境を変えてくれたのです。そのおかげで中学では毎日登校できるようになり、さらに定時制高校に入ってからは自分自身が大きく変わりました。

 定時制高校には様々な背景をもつ人達が集まり、私をからかうような人はいません。悪口や陰口もなく「あいつはヤバい」という心を傷つける言葉も聞こえません。先生から強い言葉で叱られることもありません。同好会では部員が私一人しかいなくても同好会を続けさせてくれます。全校生徒の前で部員勧誘のスピーチが出来た時、人間不信だった頃の私からは考えられない変化を感じました。他にも二つ部を掛け持ちし、視野を広げる努力も出来るようになりました。日に日に心の瘡蓋が減っていくのを感じるようになりました。

 高校に入学してから見つけた私の新たな喜びは農業に触れることです。農業を学ぶことはとても楽しく、毎日の水やりや草むしり、肥料をまくことが私に充実感を与えてくれます。草花に愛情を注ぎながら育て、そして綺麗に花が咲くのを見ると本当に嬉しくなりますし、販売でお客様の喜ぶ顔を見るのもやりがいをかきたててくれます。野菜作りには害虫対策や薬品の使い方など学ぶことが多いですが、立派に収穫できるようになると大きな喜びを感じます。農業を通して季節の移り変わりや自然のリズムを肌で感じることができ、種を蒔き、花が咲き、収穫の喜びを味わう一つ一つの瞬間が特別です。

 以前の私は人と違って劣っていると考えていましたが、今では人と違った感性の持ち主だと考えられるようになりました。コミュニケーションの取り方はまだぎこちないし、心の瘡蓋が完全になくなったわけではありませんが、他人を羨むことはもうありません。高校で自分の居場所を見つけ、好きな事に打ち込み、そして農業で学ぶ楽しさと喜びを感じることが出来るようになりました。卒業を目前に控え不安もありますが、私はこれからも成長し続けます。

 以前、母から聞いた話があります。母は若い頃に外国から移住してきたのですが、言葉の通じない日本で自分の居場所を見つけるのに大変苦労したそうです。異なる文化の中で馴染むことも簡単ではなく、その上子育てにも多くの困難が待ち受けていました。それでも母は全ての困難を乗り越え、私たちに強く生きる力を授けようと努力し続けました。母が私に学校に行くよう強く求めたのは、環境に負けるなというメッセージを込めたかったからだと思います。

 今、母の苦労を思い返しながら、私はその強さを受け継いで、より良い未来を築こうと心に誓います。