連れて行かれた場所が一変・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>5


連れて行かれた場所が一変・・・<112年前の沖縄の怖い話「怪談奇聞」>5
この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹

8月ももう終わりますが、沖縄はまだまだ蒸し暑い日が続いています。夏の風物詩といえば怪談。怖い話で涼を得ようとするのは今も昔も変わらないようです。

明治から大正に改元した1912年8月5日、琉球新報で突如連載が始まった「怪談奇聞」。読者に投稿を呼びかけ集めた〝実話系〟怪談は、約1カ月34回にわたって連載されました。当時の琉球新報社には毎日2、3通の投書が届くほどの人気ぶりでした。

1912年の沖縄は、明治時代から続く風俗改良運動、旧慣改革で日本への同化政策が進められ、近代化と差別の間で揺れ動いた時代でした。「琉球王国」の名残を色濃く残した「沖縄」のリアルな怪談を紹介します。

連載第5回目も幽霊に頼まれごとをした話です。

文章は当時の表現を尊重していますが、旧字や旧仮名遣いは新漢字、ひらがなに変換し、句読点と改行を加えています。

怪談奇聞(五)
親子の死霊に頼まるる

明治三十四年の十月十五日の午後十一時頃、自分の散歩線路と申せば、池畑会社の前を左方に取り、県庁の前より警察署の前を左方、さもなければ石門の三角までにして帰宅する恒例であるのに、その日に限り珍しくも注文を受けたように松田橋に進み、北の方に歩みて東方に行き、それから泉崎大通りに出て地蔵の上を指して行きしが、そもそも幽霊に頼まれる端緒(いとぐち)となる。

古波蔵馬場まで行ったのは夢の心地、夜も深けていくし、松の並木の音はシフシフソーソーと何となく物凄まじい。臆病な奴ならば魂や魂や(マブヤーマブヤー)と胸をなで下ろし溜息をつく場合ではなく、直ちにウント絶息したかもしらないが、私はもとより一部変わったもので、ますます清々緩々と後の様子を見たいとする。一刹那一陣の風さっと吹くかと思うと不思議や不思議、たちまち眼前暗黒世界となってしまった。

古波蔵馬場跡。かつて幅10メートル、長さ200メートルほどの馬場があった=25日、那覇市楚辺

すると年の頃二十六、七歳格合(かっこう)の女「俗に碁盤の目ちょう夏物」を着て、色は薄黒く丈は普通で容貌(かたち)は十人並みの田舎娘現れ来たり。馴れ馴れしく私に向かい曰く、「この間から頼みたいことがあって殿地に参るはずなりしも、家内(うち)に老人を労(いたわ)っているし、老人もせっかく貴方をお面会したいしたいと言っているが、何分年の沙汰にて思う通りにも行かず、幸いここまでお出になったのは我々の願うてもない次第、家内はすぐ隣所(となり)ですから失敬ながらお供願いましょう」と言いつ私の左腕をしっかと握る。

私は好奇心に「手を離せ、一緒に行くから」と一歩二歩進んだかと思うと、ごくごく小さい家にかすかに明かりをつけ、年の頃七十二、三に見受けられる爺がいる。この爺がニコニコ笑っていて、何か物頼みをしようとする様子である。そして爺は静かに口を切って、「私は七年前ここに来ているものであります。娘はカマというもの去年の十月初めに来ています。あなたのお手にかかっているウシの父が私で、カマは子でございます」と話し半ばにて、奇怪奇怪、ただいまの小屋は一変して墳墓に変化した。

私は初めて夢の覚めた心地で、それからにわかに寒気が差し、五体を震わしながら帰宅せしは、ちょうど十六日午前三時であった。

実は私は鍼灸屋であります。家へ帰るや早速治療日記を調べてみると「国場村嘉数ウシ、病名、崩漏、年五十八」とあった。

ああ、人間という者は死んでも生きても親子の情愛は一層こんなものであるかと思いました。十六日は幽霊の話したウシの治療日に当たっていたので、本人が来たから直ちに昨夜の不思議の話をしたら、本人は少しも驚かない。何を思ったか「貧乏ほど世の中に哀れなものはありませぬ」とシクシク泣いていた。私は話をしなかったのがよかったと悔やんだ。

これは私の患者に関係ある不思議な事実で、私は誰にも本記に話している事実であります。(一鍼灸治家)

投書歓迎 本社怪談奇聞係宛てのこと

「怪談奇聞」(五)=大正元年八月九日付琉球新報三面

怪談の舞台 古波蔵馬場

旧真和志の古波蔵村にあった馬場(ンマウィ-)。現在の那覇市楚辺2丁目、城岳小学校そばにあります。古波蔵村では近隣の国場村や与儀村と馬模合を組織して、月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていました。馬場は幅10メートル、長さ200メートルほどで、両側には大人3人でも抱えきれないほどの大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、馬場跡に置かれている馬のオブジェは当時の写真を元に実物大に造られています。

(次回は9月3日に掲載)