「人が人でなくなるのが戦争」 集落の人たちが見捨てた戦争孤児の少年の消息は一体…


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避難する那覇市民を目撃した旧街道「宜野湾並松」に立つ仲村元惟さん。街道は現在の米軍普天間飛行場の場所にあった=5日午前、宜野湾市佐真下

 現在の宜野湾市嘉数から普天満宮(同市普天間)まで続いていた松並木の街道「宜野湾並松」。かつて、琉球国王も参拝のために通ったという街道を、その日は正月でもないのに多くの人が北へ北へと歩いた。

 「防空ずきんをかぶった人なんてわずか。着の身着のまま家を飛び出したのでしょう」。当時、嘉数国民学校1年だった仲村元惟さん(82)=同市佐真下=は1944年10月10日を述懐する。つえをついた老人、荷物を頭に抱え一目散に逃げる男女。泣き叫ぶ子の手を引く妊婦…。生い茂る松の葉が空からの目を遮り、多くの人の避難場所にもなっていた。沿道の住民は、逃げ惑う人たちにお茶を差し入れた。

 街道沿いにある自宅隣の伯母の家に、少年とその祖母が住み着いた。10・10空襲で那覇の自宅が焼け、逃げてきた「せいいち」と名乗る少年。記憶では「清一」だが名字は知らず「那覇の清一」と呼んだ。少年の両親を見たことはない。

 同い年ですぐ仲良くなった。国民学校は既に兵舎になっており、晴れた日は山の中で、雨の日はむらやー(公民館)で一緒に勉強した。「背丈は120センチくらい。かっぷくが良く、野球帽を横向きにかぶっていた」。やんちゃな清一少年とは、木の枝の“軍刀”で兵隊ごっこをして遊んだ。一度だけ、2人で校庭に忍び込み、「ののやま軍曹」という人がコンペイトーを食べさせてくれたのは良い思い出だ。

 戦況は悪化した。修了式の日の45年3月23日、佐真下集落の住民は今帰仁村に疎開することになった。仲村さんも清一少年とともに3日ほどかけて今帰仁村に行き、謝名のトンネル壕に避難した。「壕の中を流れる小川でタニシをとって食べたり、2人で遊んだり。苦しい中でも楽しかった」

 事態が一変したのは4月20日ごろ。さらに山奥に避難していた仲村さんたちを艦砲射撃が襲った。清一少年の祖母を艦砲の破片が直撃し犠牲になった。食料が足りず、自らの家族を養うのがやっとだという状況で佐真下の人たちは清一少年を見捨てた。「私の母だってそう。人が人でなくなるのが戦争というが、まさにそうだった」。戦争孤児となった少年は、いつの間にか姿を消していた。

 本島北部の戦闘が収まり、仲村さんは米軍によって羽地村仲尾次の収容所に連れて行かれた。米軍のジープにカーキ色の軍服を着た少年が乗っていた。車を飛び降りるなり「元気か」と手をさしのべてきた。清一少年だった。壕にいるときよりも少しふっくらとしていた。

 その後の清一少年の消息は分からない。「死ぬまでにもう一度会いたい」。仲村さんは75年前の空襲が生んだ縁を懐かしむ。
 (高田佳典)