<未来に伝える沖縄戦>ひめゆり学徒、多くの友失う 島袋淑子さん


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 本部町伊豆味で生まれた島袋淑子さん(91)は夢だった教師になるため沖縄師範学校女子部(女師)に入学し、17歳のときにひめゆり学徒隊として沖縄戦を経験しました。多くの友人を亡くしながらも「お国のために」と死ぬことすら恐れなかったという島袋さん。糸満市立糸満中1年の亀谷康太さん(13)と大城柚樹さん(12)が話を聞きました。

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戦争体験を語る島袋淑子さん=9月8日、糸満市のひめゆり平和祈念資料館

 《女師に合格するために、学校の先生の家に住み込んで勉強しました》

 午後になるとテニスをしている先生たちを見て教師に憧れました。でも、父から「合格するには今の勉強では足りない」と言われました。女師の卒業生だった先生に相談すると「合格したいなら、私の家で寝泊まりして勉強しなさい」と言われました。昼は学校、夜も先生と一緒に一生懸命勉強して、一発で合格することができました。

 《島袋さんは実家を離れ、現在の那覇市安里にあった女師に入学。最初は楽しかった寮生活も、次第に戦争の足音が聞こえてきました》

 本部町からは私を含めて3人が女師に合格しましたが、伊豆味からは私一人でした。学校の運動場に村中の人が集まってお祝いしてくれました。

 期待を背負い、夜は寮の押し入れに隠れて勉強しました。なんであんなに勉強したんだろうと思うほどです。先輩のお世話など「何のために学校に入ったのかな」と思うこともありましたが、寮の友達と行った遠足は楽しかったです。プールが完成したときにはみんなで写真を撮りました。

 ところが、次第に勉強よりも軍作業の時間が増えていきました。高射砲陣地を造る陣地構築にも動員されました。テレビもインターネットもない時代です。「連戦連勝」という嘘の情報を信じ込み「お国のために」と頑張りました。

 《1945年3月23日、ひめゆり学徒隊として沖縄陸軍病院に行きます》

 日本は必ず勝つと信じていたので、1週間で帰れると思っていました。実際は違いました。

 戦争が進むにつれて、負傷した兵隊がどんどん運ばれてくるようになりました。17号壕という、ベッドも何もない所に配置されました。運ばれてきた兵隊が死んだらまた負傷兵が運ばれてくる。壕の奥には、顔に白い布がかぶせられた兵隊がいました。

 「今朝死んだけど、攻撃が激しいから埋葬もされないのね」と、布をめくってみると、下あごが全部なくなっていました。まだ生きていました。「うーうー」とうなる兵隊。どうすることもできませんでしたが、水が飲みたければ「み」、便がしたければ「べ」と私の手のひらに書いてもらうようにしました。ただ、私たちは看護の勉強はしていませんので、看護婦さんがゴム管を通して水を飲ませていました。

※続きは10月9日付紙面をご覧ください。