社会

焼かれて消えた流行の発信地 写真で振り返る戦前と戦中の那覇 10・10空襲から75年


 1944年10月10日、旧那覇市に爆弾の雨が降った。米軍は5次にわたる波状的な攻撃を加え、民間地域も無差別に破壊し尽くした。1日の空襲で旧那覇市は住宅地を含めた約90%が失われたといわれる。戦前の那覇市の中心地は那覇港に近い立地から現在の東町一帯に広がっていた。市役所や郵便局などの行政機関に加え、百貨店、寄留商人らが営む商店が連なり、人と物が交差する豊かな街だった。戦前の那覇の人々の暮らしと、10・10空襲によって受けた被害の実態を振り返る。

映画館、カフェ、雑貨店…流行の発信地だった那覇

 1919年に落成した那覇市役所は県内で初めての鉄筋コンクリート造りで建てられた。高さ23メートルの塔は当時の那覇市で最も高い建物で、那覇のシンボルともいわれた。
 市役所と同じ年に建てられた那覇公会堂は西洋風建築に赤瓦が葺(ふ)かれた「琉洋折衷」の建築様式として知られた。800人が収容でき、議会や講演会などが開かれた。電話交換局や郵便局など、当時の行政機関が集積していた。


那覇市役所とその右手の塔の頂上で時報のサイレンが鳴った。下方のテントは露天商の店(那覇市歴史博物館提供)

那覇郵便局。那覇市役所の近くにあり、郵便業務のほか、為替、貯金、通信、電話を取り扱った(那覇市歴史博物館提供)

 市役所前に延びる大門前通りをはじめとする通りと、周辺には寄留商人らが営む商店が多く立ち並んでいた。1936年8月に日本商工会議所がまとめた「各都市に於ける商店街調査(九州及朝鮮地方)」によると、那覇市商店街の店舗は、小売店が64軒、卸売業や百貨店など小売店以外の店舗が13軒で、合計77軒あったとされる。映画館が2軒あり、劇場も1軒あったと記録されている。


大門前通りにあった明視堂はめがねやキセル、子ども服などを取り扱う雑貨店だった(那覇市歴史博物館提供)

 東町にあった東町市場は品物によってシシマチ(肉市)、イユマチ(魚市)、ヤーセーマチ(野菜市)などの区画で分けられていた。シシマチは小禄出身者、イユマチは泉崎出身者が多かったといわれる。野菜は主に小禄の大嶺や鏡水、豊見城の饒波、高安などから来ていた。イモは浦添の小湾、城間などから運ばれてくるなど、周辺の市町村からさまざまな品が集まる集積地だった。首里が城下町としての伝統を重んじてきたことと比較し、那覇は「庶民の町」だったとされる。那覇市史によると、那覇は新しいものを柔軟に受け入れる要素を持ち「地方から那覇に移り住む人たちも気軽に迎え入れるという開放的な面があった」としている。


那覇市街、大門前通り。左手の建物は山形屋百貨店。正面には市役所の建物が見え、通りには電車が走っていた(那覇市歴史博物館提供)

 那覇の中心地は流行の発信地でもあった。山形屋百貨店に近い場所にあった「石門通り」にはレコードや蓄音機、時計などありとあらゆるものが売られていたという。映画館やカフェ、喫茶店、そば屋や食堂が立ち並び、多くの買い物客が訪れていた。夕方になると、蓄音機店は琉球古典音楽や民謡、流行歌などをかけていたため、買い物客ばかりではなく、用のない人も通りをぶらぶらと歩いていたという。


電車のシートに腰掛け、談笑する女性たち(那覇市歴史博物館)

 市内随一の繁華街だった「大門前通り」は盆前や師走は特に多くの人出でにぎわっていた。木造平屋の商店が多かったが、1935年には鉄筋建ての円山号(まるやまごう)百貨店が建造され、山形屋百貨店と共に通りの名物となった。

死傷者1400人超 那覇9割焼失


10・10空襲で焼失した那覇市街地(那覇市歴史博物館提供)

 1944年10月10日の「10・10空襲」は第1次空襲が始まった午前6時40分ごろから、午後3時45分の第5次攻撃までのおよそ9時間、米軍の波状的な攻撃が続いた。延べ1396機の米軍艦載機が本島や周辺離島、先島、奄美諸島など南西諸島全域を飛び回り、爆弾の雨を降らせた。
 攻撃目的は港湾や飛行場だったが、午後にかけて旧那覇市の民間居住地域も焼夷(しょうい)弾で焼き払い、那覇市の家屋9割が焼失した。沖縄戦の前哨戦とも称される無差別な空襲によって668人が死亡、768人が負傷した。



 空襲が始まった午前7時前、那覇市役所の宿直員として、空襲を体験した宮城調定さんは、異様な物音が気になりながらも「砲声や機銃音は前夜からの演習の続きであり、頭上の飛行機は友軍であると判断した」とその時を振り返る。
 宮城さんと同じように「友軍」の演習と思い込んだ住民は多かった。米軍の攻撃と分かり、空襲警報が発せられると、住民らは近くの防空壕などに避難した。


空襲直後の通堂町・東町。市内の90%が灰燼に帰した(那覇市歴史博物館提供)

 米軍による第1~3次攻撃は本島内の飛行場や港湾、船舶への攻撃が主だったが、第4、5次攻撃にかけて那覇市街地が集中的に標的となった。那覇市街地への攻撃について松下町に住んでいた金城唯正さんは「前の飛行機が焼夷弾を投下すると、後についている2機が左右から機銃掃射するという風だった」と振り返る。
 那覇市の民間地では255人が死亡、358人が負傷し、家屋の消失は1万1千戸余にも上った。10・10空襲後、沖縄に戦雲は急速に迫っていった。