機銃掃射の中、救助に往復 10・10空襲「迅鯨」撃沈 犠牲者への思い いつまでも


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迅鯨が撃沈された方向を指さし75年前を振り返る中村英雄さん=10日午前8時ごろ、本部町崎本部

 【本部】1944年10月10日の「10・10空襲」で本部町瀬底の東300メートル付近に沈没した日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」の乗組員救助に携わった本部町健堅の中村英雄さん(89)が10日午前8時、自宅近くの迅鯨鎮魂碑で犠牲者を悼み、迅鯨が攻撃された時間に合わせて碑に手を合わせた。穏やかな海を眺めながら当時の惨状を振り返った。

 75年前、14歳の中村さんは仲間2人と船でトビウオ漁に向かっていた。午前7時ごろ、読谷の方で(空襲の)煙が上がるのに気付き慌てて引き返すと、あっという間に米軍のグラマン機が来て攻撃が始まった。

 瀬底の浜の岩場に隠れた中村さん。「朝8時ごろは迅鯨もまだ大砲を撃っていた。退避命令が出たのだろう。乗組員が次々に海に飛び込み泳ぎ始めた」と振り返る。迅鯨から漏れ出た油の中、人々はもがきながら泳いでいた。機銃掃射で負傷している人もいた。

 午前10時ごろ、岩場から出た中村さんらは2~3人乗りのサバニで漂流する乗組員の救助を始めた。

 「1度に1人から3人を引き上げて浜に運んだ。助けては(機銃掃射から)隠れ、助けては隠れだった。20~30回往復した。ゼロ戦操縦したさに予科練に志願したような若者だったから怖くはなかったよ。一人でも多く助けねば、との一心だった」。激しく攻撃された迅鯨は5日間燃え続けて海に沈んだ。乗組員135人が犠牲となった。

 現在も迅鯨が沈んだ海を眺めながら暮らす中村さん。2000年に元乗組員が碑を建立した際も協力した。「海を見るたびに迅鯨のこと、命を落とした人たちを思い出す。体が元気なうちは慰霊を続けたい」と語った。
 (岩切美穂)