首里城で31日に発生した火災により、正殿や北殿、南殿など各建造物が焼損した。長年、復元に携わってきた琉球大学名誉教授の高良倉吉さんは「信じ難い。琉球独自の歴史の象徴が失われていく」と声を落とした。芥川賞作家の大城立裕さんも「県民にとっての最大の象徴が失われてしまった」と大きな衝撃を受けていた。
「県民の象徴だった」 復元尽力の高良さん衝撃
長年、首里城の復元に琉球史の専門家として携わってきた琉球大学名誉教授の高良倉吉さんが火災の一報を聞いたのは31日午前3時すぎだった。那覇市安謝の自宅にいた高良さんは、首里城復元を協力して進めてきた建築担当者から電話で「首里城が燃えている」との連絡を受けた。自宅の2階の上の方へ階段を上ると、窓から見える首里城の方向に、赤い炎が見えた。「大変なことになった」と実感した。
首里城の公園内は、30年余りにも及ぶ復元事業を今年終えたばかり。そのタイミングでの火災に高良さんは「信じ難い思いだ」と声を落とした。
1950年から85年まで首里城跡にあった琉球大学が現在の西原町のキャンパスへ移転するのに伴い、その跡地に復元することが決まった。多くの専門家が復元に参加し、高良さんも80年代半ばから復元に携わってきた。「琉球処分以前の首里城に戻すことがテーマだった」と話すように琉球王国時代の姿を目指して復元作業を始めた。
ただし沖縄戦で焼失したために、県内には復元に必要な資料がほとんど残っていなかった。「どう復元するのか不安だったが、徹底してリサーチした」と振り返る。戦争の被害を免れた鎌倉芳太郎氏の資料や尚家の資料などが県外に残っていることが分かり、そうした資料を基にした研究が復元につながった。
正殿の工事では本土から宮大工も来県し、共同で作業した。「宮大工の技術が沖縄の大工へも伝わることにもつながった」と意義を語る。県内外の専門家の英知を結集し、30年余りもかけて復元にこぎつけた首里城の正殿を含む7殿が焼損したことに「琉球の独自の歴史を象徴するのが首里城。象徴が失われていくのは複雑な思いだ」と悲しむ。
今後、改めて再建していく作業が必要となりそうだ。「図面や人材も含め、修復するための首里城研究の成果は蓄積されている。焼けた建物を建て直すことは可能だ。事業としてどう進めるかだ」と話し、焼損した各建造物の建て直しへ向けた取り組みを見据えた。
「一番の宝無くなった」 作家・大城立裕さん
沖縄初の芥川賞作家・大城立裕さんは首里城について県民にとっての「誇りそのもの」と表現する。31日未明に発生した火災で首里城の正殿や北殿、南殿などが焼損したことを受けて「本当に沖縄の一番の宝が無くなった」と深く悲しんだ。
沖縄戦で多くの文化財も破壊され、関連資料も失われた中で、県内外の専門家が連携して琉球王国時代の首里城の姿を研究し、30年余もかけてそれぞれの建造物の復元へとこぎつけた。大城さんは首里城について「先の戦争で大きな喪失を体験し、傷ついた人々が生き直すためのよすがだった。県民にとって最大の象徴が失われてしまった」と落胆した。
大城さんが執筆した小説「琉球処分」は、1879年に琉球王国が日本へ併合されていく状況を描いた。日本政府から派遣された琉球処分官の松田道之が軍隊や警察を伴って首里城を明け渡させるのは象徴的な場面だ。
歴史的な舞台となってきた首里城を琉球王国時代の姿に戻すべく専門家の英知を集め、取り組んできた復元作業について、大城さんは「ウチナーの歴史家、美術家らが総力を挙げて沖縄文化の象徴として首里城正殿を復元した」などと2014年に本紙がインタビュー取材をした際にも意義を語っていた。
1980年代から復元に取り組んできた首里城の各建造物が今回、一夜にして焼損してしまったことに「県民全体のアイデンティティの象徴だった。30年余もかけて復元してきたものが無くなり、大きな損失だ」と衝撃の大きさを語る。
今後、各建造物を再建する作業に向けては「もちろんやらないといけないと思うが、大変だろう」と指摘した。
琉球大学名誉教授の高良倉吉さんらが中心に復元に取り組んできた経験を踏まえ「資料は残っているだろうから、高良さんの後を継ぐ人たちも一緒に取り組んでほしい」と期待した。