〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉56 闘病の末、他界 志託す


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県民葬会場に入る知事の玉城デニー(右端)、妻の樹子(右から2人目)ら=2018年10月9日、那覇市の県立武道館

 膵臓(すいぞう)がんとの闘病を続けていた翁長雄志は2018年8月8日、知事在職中に死去した。67歳だった。1985年に那覇市議に当選、県議を経て2000年から那覇市長を務めた。知事は2014年から3年8カ月の在職だった。33年間、政治の道を休むことなく駆け抜けた。

 「政治家は消耗品。使い捨てでいいんだ」と日頃から語っていた。妻の樹子は「幼い頃から父親の背を見て選挙の厳しさを知っていた。懸命にやっても新しい人は次々に出てくる。(有権者に)選ばれなかったのなら、恋々としがみつくものではないという翁長の処世観だろう」と振り返る。

 しかし雄志は自身の選挙で、最後まで負けることはなかった。市議、県議時代は同級生や近い年代の仲間に支えられた。

 念願の那覇市長に選ばれると、山積していた課題を一つずつ前に進めた。ごみ問題で、市民に排出量抑制の意識を高めてもらうため街頭で演説し、処分場に度々足を運んだ。「効果が表れると『那覇市民は偉いよ』と誇らしげだった」という。

 知事選への出馬、基地問題への向き合い方について樹子は「いつも『政治は妥協の芸術』と言っていた。けんかの嫌いな人だ。相手の話をじっと聞いて、自分に6分の理があると思っても譲る。辺野古の新基地建設に反対すること以外は譲り合って『腹六分』で出馬を決断した時、彼の真骨頂だと思った」と語る。

 雄志はウチナーンチュの前を去ったが、志を継ぐ政治家が現れた。死去を受けた18年9月30日の県知事選で玉城デニーが当選した。玉城の選対で存在感を発揮したのは、17年から那覇市議を務める息子の雄治だ。雄治が市議選に出馬する際、反対する樹子に雄志は「政治を志す者が一度決めたことは、周りがいくら言っても変えられない。俺もそうだったんだから」と言った。雄志の母、和子も最後まで雄志が政治家になることに反対していた。

 那覇市長を目標としていた雄志を知事に押し上げた「オール沖縄」の潮流は、今も国政選挙で辺野古反対を訴える候補者を当選させる。「保革を問わずウチナーンチュが心の奥底に抱える思いがある。翁長は知事に踏み出したが、皆の心の中にその思いがあったから今の流れがある」

 県議時代は知事だった大田昌秀を厳しく批判し、自身が知事になると、かつて同じ道を歩んだ者から批判を受けた。だが「家に帰ってきて『あいつは…』と言ったことは一度もない。背後の日米両政府を見据えていた」と樹子は語る。最期が近づくころ、雄志が繰り返していた言葉がある。「未来永劫(えいごう)、沖縄が今のままでいいと思っている県民は一人もいない」
 (おわり)

(敬称略)
(宮城隆尋)