第32軍司令部壕、公開求める声高まる 首里城地下の戦争遺跡、再建に併せ「平和のとりでに」


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第32軍司令部壕の第5坑道内部。かなりの補強工事が進められているが、風化の足跡も感じさせる=2015年6月

 焼失した首里城の再建に向けた支援が広がる中、地下にある日本軍の第32軍司令部壕の公開を求める声が高まっている。1996年、県の第32軍司令部壕保存・公開検討委員会の委員長として公開を決めた名桜大前学長の瀬名波栄喜さん(91)=那覇市=もその一人。瀬名波さんは「首里城と司令部壕は不可分の関係にある」と首里城再建と併せて改めて司令部壕公開の必要性を訴える。

第32軍司令部壕の公開の必要性を指摘する瀬名波栄喜さん=29日午後、那覇市

 32軍司令部壕の公開を巡っては、元外務省主任分析官の佐藤優氏が本紙コラムで提案したことで、賛同する声が広がっている。

 司令部壕について、県は沖縄戦を象徴する存在だとして93年に本格的な調査を開始。名桜大教授だった瀬名波さんが委員長を務めた保存・公開検討委員会が95年11月に設置され、翌96年に「公開」を決定した。その後の基本計画検討委員会では牛島満司令官の部屋まで公開する方針となった。

 ただ当初から崩落の危険性や整備に多大な費用が必要となることが懸念されるなど、壕の一般公開は実現していない。当時、瀬名波さんは第3坑道から壕内に入り、牛島司令官の部屋などを確認、注射針などが落ちていたという。ただ内部では「水が流れていて、そのままでの公開は難しいことは分かっていた」と語る。

 首里城は過去に4回焼失しており、そのうち1回は沖縄戦真っただ中の45年4月だった。国宝だった首里城の真下に司令部壕が築かれ、米軍の標的となったためだ。瀬名波さんは「首里城を説明するには司令部壕は欠かせない。沖縄戦の実相を伝えることにもつながる」と指摘する。
 
 追体験を通して沖縄戦を伝える沖縄ピースウォーキング会代表の垣花豊順さん(86)=那覇市=は政府の責任で司令部壕の崩落を防ぎ、「平和のとりで」にするよう求めており「首里城を見に来る人に知ってほしい」と訴えた。

■日本軍の拠点、沖縄戦で米軍の標的に

 第32軍司令部壕は、日本軍が大本営直轄の沖縄守備隊として創設した第32軍の司令部として1944年12月に構築が始まった。南部に撤退する45年5月まで使われた日本軍の軍事的中心だった。
 司令部壕は五つの坑道があり、内部には第32軍の牛島満司令官や長勇参謀長の「部屋」や将校室などがあった。国宝だった首里城の真下に築かれたため、沖縄戦で米軍の標的となり45年4月に焼け落ちた。一帯では日米両軍が激戦を繰り広げ、多くの住民の命や文化財が失われた。
 首里城の園比屋武御嶽石門近くにある司令部壕の第1坑道入り口付近には説明板が設置されているが、県は2012年に説明板設置検討委員会がまとめた説明文から「慰安婦」の文言と日本軍による住民虐殺に関する記述を削除した。委員らが記述復活を求める声が上がるなど、曲折を経ている。