『修羅と豊饒―沖縄文学の深層を照らす』 右傾化の社会撃つ文学観


社会
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『修羅と豊饒―沖縄文学の深層を照らす』平敷武蕉著 コールサック社・2200円

 著者がいかに「文学」に関わって多彩な表現・批評活動を行ってきたかは、本書の目次(構成)を見ればすぐ分かる。第一章小説、第二章俳句・短歌・詩、第三章社会時評と文芸、第四章書評、という構成の下で、作家の大城立裕や目取真俊、崎山多美、大城貞俊、詩人の八重洋一郎、俳人の野ざらし延男、おおしろ建(及び著者自身)、歌人の大城静子、玉城寛子、文学研究者の仲程昌徳、岡本恵徳、評論家(歴史学者)の新崎盛暉、等々、「現代沖縄文学」に関わるほぼ全ての表現者や作品が取り上げられている。

 筆者は、それらの表現者や作品に対して、本書の冒頭に置かれた大城立裕の短編集『普天間よ』に対する歯に衣を着せぬ批判にその典型を見ることができるのだが、文芸作品が読者の胸を撃つのは作者が書こうとする主題に対してどれほど「内的必然」性を持っているかにかかっているとし、おのれの批評的立場を鮮明に批評を展開する。

 そして、筆者の言う「内的必然」とは、表現者が表現対象(主題)に対してどれほどの現実意識・現場感覚を持っているかに関わっている、と断言する。この筆者の「評価」の基準、つまり批評(批判)意識は本書全体に貫流していて、最後までぶれることがない。読んでいて全体に「爽やか」な印象を受けるのも、筆者が誰に阿(おもね)ることもなく、現代日本文学の在り様を視野に、「沖縄文学」こそ文学(芸術)と社会との「抜き差しならぬ」関係を体現している文学である、と心から信じているように思えるからに他ならない。

 しかも、そのような筆者の批評(文学観)は、図らずも「混迷」と「停滞」を極め「右傾化」を強めている本土=ヤマトの社会や政治、文学の現状を撃つものになっている。評者も含めてということになるが、ヤマトの社会や文学界・論壇は筆者の批判=異議申し立てを真摯(しんし)に受け止める必要があるのではないか、と思わせるものがあった。

 (黒古一夫・文芸評論家)

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 へしき・ぶしょう 1945年、旧具志川市(うるま市)生まれ。68年、琉球大学法文学部卒業。2005年、評論集「文学批評は成り立つか」で第3回銀河系俳句大賞、13年、「『野ざらし延男論』序説」で第41回新俳句人連盟賞(評論)を受賞。