県勢初出場、〝銅〟の偉業 離島県から挑み続け歓喜 シドニーパラリンピック車いすバスケ女子代表 友利博美さん うちなーオリンピアンの軌跡(12)


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銅メダルを掲げて笑顔を見せる友利博美=2000年10月、オーストラリア・シドニー

 県勢初のパラリンピック出場と銅メダル獲得という二つの偉業を同時に果たしたアスリートがいる。切断や脊髄損傷など下肢に主な障がいがある選手を対象とし、「コート上の格闘技」とも称される車いすバスケットボールの女子代表として2000年シドニーパラリンピックに挑戦した友利博美(49)=那覇市出身=だ。離島県・沖縄を拠点に県外のチーム合宿や大会に挑み続け、生活と心身を追い込みながらようやくたどり着いた晴れの舞台だった。

■19歳で左足切断

 幼い頃から駆けっこ好きで、那覇市立城北中、浦添工業高ではバスケ一筋だった。高校卒業直後、左膝に違和感と痛みを感じ、軽い気持ちで整形外科を受診すると、琉球大付属病院を紹介された。診断結果は骨のがんの一種「骨肉腫」。「もう走れないんだ」と悲嘆に暮れた。治療を尽くしたが、完治は難しく、1年半後、19歳で左膝から下の切断を決意した。

 長い時間をかけて病と向き合い、大きな決断をする頃には次の目標を見定めていた。きっかけはテレビで見たパラリンピックの水泳。屈強な体で世界一を競う選手に魅了された。少しでも動きやすいように、切断した足首の関節を膝関節として代用する「ローテーション手術」を選んだ。

 20歳の時、水泳練習で訪れた身体障害者体育施設「サン・アビリティーうらそえ」で運命の出会いがあった。車いすバスケチーム「シーサークラブ」が汗を流していた。高校時代の和仁屋松輝監督が車いすバスケの審判をしていたため、チームのことは知っていた。ボールが弾む音が懐かしい。「これだ」。第2のバスケ人生が幕を開けた。

友利博美がシドニーパラリンピックで獲得した銅メダルと着用した日本代表ジャージ

■守備職人に成長

 同じ「バスケ」だが、競技は別物だった。簡単に入ると思っていたシュートが難しい。座って使えるのは上半身の力のみで、3メートル5センチのリングにボールを届かせることさえ容易でない。シュートやパスには微妙なボールタッチが必要なので、車いすは素手でこぐ。手の皮はむけ、上半身全てが筋肉痛。想像以上に過酷だったが「スピード感に魅了された」とのめり込み、めきめきと力を付けた。

 当時、シーサークラブ代表だった前川敦(60)=那覇市=は「初めはガリガリで腕力は大丈夫かなと思ったけど、自主トレもして練習熱心だった。スピードと技術はすごかった」とその成長ぶりに舌を巻いた。九州の強豪「ドルフィンズ」にも所属し、九州連盟の推薦を受けて日本代表の合宿にも参加した。

 当時は障がい者スポーツ選手への支援は薄く、沖縄から県外大会や合宿に参加するのは経済的にも簡単ではなかった。仕事をしながら「沖縄からでもやれるんだ」という一心で年間100万円の遠征費を自費で捻出したこともある。しかし96年のパラリンピックアトランタ大会は最終選考で代表から落選。負けん気の強さに火が付いた。相手のコースを読む勘やスピードに磨きをかけ「守備職人」としてシドニー大会の日本代表12人の枠に入った。

予選リーグのメキシコ戦に出場し、体を張ったプレーを見せる友利博美(右から2人目)=2000年10月、シドニー

■歓喜の輪

 2000年10月、シドニー。8カ国が2組に分かれた予選リーグの初戦の相手はドイツだった。体の大きな海外に対抗して日本は俊敏性を生かした「トランジションバスケ」で挑み、62―52と幸先の良いスタートを切った。この試合で出場はなかったが、2戦目のメキシコ戦の途中、コーチから名前を呼ばれた。点差の広がった後半、コートへ出る。競技開始から10年。夢にまで見た舞台に胸が高鳴った。しかし短い出番でシュートも打てず「あっという間に終わった」。

 障がいの度合いを重い方の1・0点から4・5点まで0・5点刻みの8クラスに分け、出場5人の合計が14点以内でなければならない。友利は度合いが軽く点数がかさむ4・5点だったため、コートに立つには万能性が求められた。しかし「得点能力が足りなかった」。大会での出場はこの時だけだった。

 予選を2位通過した日本は準決勝でオーストラリアに33―45で敗れたが、3位決定戦でオランダに48―28で快勝し、84年ニューヨーク・エイルズベリー大会以来の銅メダルを獲得。友利もベンチから声を枯らして支えた。現在でも男女を通じて日本勢の最高成績だ。

 3位が決まる試合終了のブザーが鳴った瞬間、ベンチも含め選手全員が叫び、歓喜の輪をつくったことは昨日のことのように覚えている。「自力でメダルを取った感覚はないけど、あの場にいられたのはすごいこと。支援してくれた仲間や職場には感謝しかない」

 来夏の東京大会に挑む上与那原寛和(48)はぎのわん車いすマラソン大会などで顔なじみだ。11月のドバイでのパラ陸上は深夜まで起きてテレビ観戦し、声援を送った。世界最高峰の舞台に立ったからこそ、4大会連続で出場する上与那原のすごさが身に染みて分かる。「沖縄から出ていくだけでも大変なのに、ちゃんと力を付けていっていることがすごい。メダルを取ってほしい」。東京での活躍を心から楽しみにしている。 

 (敬称略)
 (長嶺真輝)