「本土と沖縄との間の『対話』を広げ理解を深めること」「祖国復帰を『第二の琉球処分』視されてはならないこと」―。沖縄返還が合意された日米首脳会談直後の1969年11月22日、日本政府沖縄事務所の岸昌(きし・さかえ)所長が外相に宛てた公電で、日本復帰後の政策を進める上で「沖縄の心」に配慮するよう進言していた。外務省が25日に公開した外交文書に含まれていた。
岸氏は当時、本土の官僚が沖縄の心を理解しないまま復帰対策に関わることは「大きな不幸」だと主張していたが、公電からもそうした問題意識がうかがえる。
岸氏は会談で返還が合意されたことを受けた沖縄現地の反応について、米国統治からの解放感や「ヤマトンチュウ」への劣等感と不信感、米軍基地が残る不安などが混在し「平静さの底に複雑な陰影を作り出している」と分析。「左右両陣営ともついに沖縄の主体性を確立することに成功しなかったことが特徴的な現象として指摘できる」とも打電している。
その上で、日本政府として、こうした「沖縄の心」へのきめ細やかな配慮が必要だと論じ、本土と沖縄の「対話」を広げること、「祖国復帰即ち第二の琉球処分」と批判されないこと、沖縄を政治的、財政的な「重荷」と受け取らずに広い視野から政策を講じること―の3点を柱に、復帰対策に取り組むべきだと進言した。
日本政府沖縄事務所は現在の沖縄総合事務局に当たる組織。岸氏は初代所長として68年6月から70年10月まで務め、復帰準備に当たった。その後は大阪府知事などを歴任した。所長当時、復帰特別措置不要論を唱える官僚に「戦後の沖縄の苦難からみれば、特別措置は瞬間に等しい」と諭したエピソードが知られる。
2007年の琉球新報のインタビューで、岸氏は68年11月の初の主席公選について「所長としては中立だが、ひそかに屋良朝苗氏を応援していた」「屋良さんの眉間のしわが全てだった。深ければ深いほど主席をする意味があった」などと振り返っている。