最年少は14歳の少年も… 海の戦の解明遅れ 船舶記録研究が今後の課題 「戦時徴用船」700人超犠牲


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子

 日本軍の方針によって船ごと徴用され、戦地に動員された700人以上の県出身船員らの最期が「戦没船員名簿」によって、わずかに明らかとなった。犠牲者が出た場所は太平洋の全域、インド洋、アリューシャン列島周辺など広範に及ぶ。地上戦で住民が巻き込まれた沖縄戦の研究や聞き取り調査が進む中、戦没船員らを含めた県民の「海の戦争」の歴史はいまだ解明できていない部分が多く存在する。

 沖縄の戦争被害に関する調査・研究は地上戦における住民被害に重きを置く傾向があった。船が丸ごと徴用される戦時徴用船でも多くの県民が巻き込まれているが、研究は後回しになってきた。

 県は1990年代、船舶による県民の犠牲者の調査を進めたが、旅客に限ったものだった。市町村史などで戦時徴用船で生き残った人の証言は一部収録されているが、雇用形態や徴用の在り方など、詳細の解明と記録は今後の課題となる。

 戦没船員名簿によると、県出身戦没船員のうち、最年少は海軍徴用船で食事などを担当する「司厨部」の14歳の少年だった。特に民需品の輸送などを担当した船舶運営会のC船には、20歳に満たない犠牲者も多く存在していた。

16人の県出身船員の犠牲者を出した戦時徴用船「開城丸」(戦時遭難船舶遺族会「海鳴りの底から」から接写)

 さらに、宮古、八重山に本籍があった船員らが全体の3割以上を占めていたことも明らかとなった。特に宮古島は人口比率からみても突出しており、大規模な徴用があった可能性もある。

 亡くなった年別でみると、1944年に全体の半数に近い353人が亡くなっていた。そのうち約7割は南洋群島やインドネシア、フィリピンなどの東南アジアで犠牲になった。同年はマリアナ沖海戦やグアム、サイパン、レイテ島の戦いなどの戦闘が起きていた時期と重なる。多くの船員らは戦火が激しい危険な海域での任務を担い、命を落としたとみられる。

 鹿児島―那覇の定期航路を運行し、45年3月に東シナ海で空爆を受けて沈没した開城丸では、戦没船員名簿の中で最も多い16人の県出身船員が犠牲になった。「10・10空襲」のあった44年10月10日には10人の船員が那覇港付近や沖縄近海、日本近海で亡くなった。 (池田哲平)