「声も出んかった。まさか探しに来てくれると思わへんかったから」
神戸市長田区の前田雅子さん(64)は25年前の“再会”の時の光景を思い出していた。両親が沖縄出身で長田区で生まれ育った県系2世。同区内の自宅近くにある実家で被災した。息子3人と2階で就寝中に強い揺れが襲った。
玄関は崩れて戸が開かなくなっていた。なんとか毛布1枚だけ持って外に。
狭小な住宅がひしめく路地にはガスの臭いが充満。事態がのみ込めないまま、近くの小学校に避難した。
現場に出動していた消防士の夫、三郎さん(70)とは連絡がつかず、母親と兄、息子3人と不安な夜を過ごした。地震発生から2日目。学校の廊下を歩いていると、思いがけない人がいるのに気づいた。
県人会で知り合った友人の石井明美さん(65)だった。「もちろんうれしかったですよ。でも涙は出んかった。あの時は必死やったから。感情がなくなっとったんやね」
保健室での暮らしは約5カ月続いた。風呂にも入れず食事も満足にできない。
避難所の慰問に来たアフリカ太鼓の演奏を見て余計に気が重くなった。
「ああ、この人たちはこうやって被災者を慰めてあげられる。してもらうだけでええんやろか」
長年続けてきた琉球舞踊は師範も務める腕前。地震で崩れた自宅からは舞踊で着る着物は運び出していたが、「演者」の前に「被災者」である自分の立場を思い知らされるようだった。
「もう一度踊りたい」。その思いを後押ししてくれたのも同郷の友人だった。
「石井さんが避難所で踊ったら、と声を掛けてくれたんです」
その言葉に勇気付けられ、避難先の小学校の校庭で琉舞を踊った。舞台はブルーシートの上。「足の裏に砂利が当たって痛かったことをよう覚えてます」
尼崎市でエイサー演舞をする県人団体「琉鼓会」と共に避難所を回るようになった。不自由な生活を強いられている被災者が、古里の空気を伝える舞で顔をほころばせるのを見て心が休まった。
「うれしいというのはおかしい。でもやってよかったという気持ちはありますよ」。軽はずみな言葉を言えないのは、今も続く被災者の苦しみを同じ目線で知っているからだ。
街の大部分が破壊され、焼失した長田区には高層の復興住宅が建つ一方で、自宅近辺の集落には空き地が目立つ。震災直後の仮住まいにしていたプレハブ小屋にはまだ親族が住む。
「街はきれいになったけど、震災前の生活は二度と戻って来ませんからね」
(安里洋輔)