「受け入れてもらえるんやろか。石、投げられるんちゃうか。行く前はそんなふうに思ってました」
兵庫県尼崎市の県系2世、比嘉恵美子さん(71)は1995年5月の避難所での初舞台をこう振り返る。同じく県系2世の夫、良治さん(73)や次男の純也さん(47)ら家族でつくったエイサー演舞団体「琉鼓会」は今年で結成から27年を迎える。
県外勢としては初めて沖縄全島エイサーまつりに出演。東日本大震災など、各地の被災地を回るボランティア活動も積極的に行っているが、原点は阪神・淡路大震災の被災者が身を寄せる避難所での演舞だ。
神戸市長田区の真陽小学校。同区で被災した県人会の友人で、恵美子さんが琉球舞踊を師事していた前田雅子さん(64)の避難先となっていた同校の校庭から、被災者のために踊り続ける琉鼓会の歩みは始まった。
「エイサーをやりたいんや」。93年、沖縄市諸見里の青年団によるエイサーを目の当たりにし、奮い立つものを感じた純也さんは両親に訴えた。
「昔から沖縄の文化や芸能を親から教えられてウチナーンチュのアイデンティティーを強烈に持っていた。沖縄に飢えていた」
設備工事会社を営む良治さんが工場を練習場所として提供し、純也さんを中心に、同じ3世の中村健次さん(49)ら沖縄にルーツを持つ仲間が集まった。
純也さんは、県人が特に多い戸ノ内町で初めて「道ジュネー」をした時のことを今でも覚えている。
「おっさんらが『これや、これが見たかったんや』って口々に言うんです。なんとも言えん気持ちになりました」
避難所での初舞台は、那覇市首里出身の石井明美さん(65)=神戸市須磨区=からの依頼がきっかけだった。不安の中、小雨が降る校庭で踊り始めると、雨はやみ、歓声が上がった。
「それから雨が降ったことは一回もないんです」
恵美子さんはうれしそうに笑いながら、全国の被災地を回り続けたこれまでの活動を振り返った。
純也さんは2010年に会長を退き、妹の忍さん(45)の夫・比嘉智樹(もとき)さん(44)にその座を譲った。
那覇市で育った智樹さんは琉舞を習うために沖縄に来ていた忍さんと仕事先で知り合い、結婚。妻と共に尼崎に移り、1男2女をもうけた。忍さんに「次の会長です」と冗談めかして紹介された長男の祐貴さん(23)は、特別支援学校の教員をしながら琉鼓会の活動を続ける。
「教員の世界は狭くなりがち。琉鼓会を通してたくさんの人と触れ合うことで世間を知ってほしい」と語る忍さんのそばで、「慰霊の日」生まれの祐貴さんがはにかんでいる。
古里から離れたウチナーンチュが紡ぐパーランクーの響きは、明日も明後日も被災地で鳴り続ける。
(安里洋輔)