14人の埋葬場所、特定できず全容不明のまま 本部町健堅の遺骨発掘


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遺骨発掘作業をする日本、韓国、台湾の若者ら=9日、本部町健堅

 太平洋戦争末期、朝鮮人2人を含む14人が埋葬された本部町健堅の土地で、8~11日までの4日間、日本、韓国、台湾の若者による共同発掘作業があった。発掘で背骨とみられる骨3片が見つかったものの、14人が埋葬された場所は特定できず、全容は不明のままだ。発掘作業を主催した実行委員会は骨3片のDNA鑑定を国に求めていく考えで、今後の調査についても議論を進める。

 健堅に戦没者が埋葬された事実は、1945年5月28日号の米誌「LIFE(ライフ)」に掲載された写真や周辺住民の証言などから明らかになっている。写真には瀬底島を背景に墓標が14本並んでおり、そのうち12人は、45年1月22日に米軍の攻撃を受けて撃沈した輸送船「彦山丸」の乗組員だった。

「石ガンパー道」

 今回の発掘は埋葬地の海側に近い場所から縦約20メートル、幅約5メートル、深さ約4・3メートルを重機で掘り下げて進められた。ただ、ライフの写真に写る瀬底島の背景を参考に発掘場所を決めたものの、土地の高さなどは戦前と変わっているとみられ、埋葬場所を正確に特定するには至らなかった。

 埋葬地周辺は岩が多く、道路拡張前までは住民から「石ガンパー道(石だらけの道)」と呼ばれていた場所。道路整備に当たって盛り土もしたとみられ、発掘は地中に多く埋まっていた岩と岩の間の土を丁寧に取り除きながらの作業となった。埋葬地は現在も民間会社が使用しており、発掘作業には時間的な制限もあった。

沖縄戦開戦直後、米雑誌「LIFE」に掲載された墓標が並んだ写真(本部町立博物館所蔵写真から複写)

未成年の人骨か

 今回の発掘調査で見つかった骨は41~43年に発行されていた日本の貨幣と一緒に見つかった。

 発掘に参加した韓国遺骨発掘専門団のパク・ソンジュ団長は「18歳以下の人間、子どものものだろう」との見解を示した。彦山丸の乗組員で墓標に名前があったうち、2人は18歳以下の少年だったことが明らかになっている。現場を確認した県立博物館・美術館元館長の安里進さんは「彦山丸に乗っていた若い人たちの可能性もある」と指摘している。

 一方、周辺の住民からは彦山丸の乗組員らが「火葬して埋葬された」との証言も残っているが、見つかった骨の周辺で焼けた灰などは確認できなかった。

全面調査求める声も

 実行委員会の沖本富貴子さんは「埋葬された場所は特定できなかったが、ある程度の場所が分かり、手応えはあった」と成果を語った。

 今後は見つかった骨のDNA鑑定などを国に求めていく考えだ。参加した日本、韓国、台湾の若者らは「東アジアの平和」を望み、協力しながら作業する姿もあった。

 ただ、昨年11月の試掘を含め、土地全体の3割強の調査しか終えられていない。沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松代表は「これだけ戦没者が埋葬された証拠が多い場所は少ない。今回は時間や費用の制限があったが、国の責務として埋葬地全体の発掘調査を進めるべきではないか」との見解を示す。実行委らは今後の方針について協議していく考えだ。
 (池田哲平)