158センチと小柄な体からは想像もつかないダイナミックなプレーを見せる。ハンドボール女子日本代表「おりひめジャパン」の左サイドを務める勝連智恵(30)=石垣市出身、オムロン=は、昨年11月の世界選手権で日本女子初の10位に貢献。今でこそ日本代表に欠かせない存在だが学生時代は全国優勝や代表経験のない無名選手だった。キャリア継続が危ぶまれる2度の大けがも負ったが「ここまでやってきて、ハンド以外なかった」とがむしゃらに走り続けてきた。
■代表知らず
4歳まで石垣で過ごしたが、両親の転勤で名古屋に移った。中学に上がると、友達の誘いでハンドボール部に体験入部した。当時の監督が「怖い存在で、もう他の部活を見に行ける雰囲気じゃなかった」との理由で競技を始めた。
当時は150センチ足らずだったが俊敏性に優れ、細かな動きで相手を翻弄(ほんろう)した。非凡な才能で中心選手として活躍する姿が大阪の強豪・宣真高の監督の目に留まる。高校でも軸になりチームを引っ張るが、全国高校総体は4強、国体は準優勝で惜しくも日本一には届かなかった。
熊本が拠点の日本リーグのオムロンからオファーを受けた。「高校で日本一取れなかったし、やるならトップレベルのとこだな」と覚悟を決めて入社した。代表経験もない勝連に初めは「この子は誰だ、という雰囲気が漂っていた」という。だが懸命になじもうとするひたむきな姿勢や、実力が認められていった。北京五輪(2008年)の年の加入で、「オリ」のニックネームが付いた。
■逆境
11年に最初の試練が襲う。大学生との練習試合中だった。「打てば入る」というほど調子が良かった。勢いよくジャンプシュートを放った後、着地で「ばきっ」と嫌な音が鳴った。左膝の前十字靱帯(じんたい)を全断裂。手術後はリーグの残り試合に出られなかった。
手術を要する人生初の大けがだったが、気持ちは落ち着いていた。日本リーグで戦える自信が付いてきていた時期で「辞める選択肢はなかった。早く走りたかった」という。つらいリハビリを乗り越え復帰した後は、すぐに高いパフォーマンスを発揮した。12年12月開催の女子アジア選手権で日本代表に初選出。左サイドの主軸を担い、中国との準決勝は先発出場した。
順調にきていた翌年2月、再びけがをした。素早く切り返した時に、相手DFに右ひざだけ「持って行かれた」。前十字靱帯断裂、骨挫傷と半月板の損傷も負った。「ナショナルに選ばれてたし、モチベーションは下がらなかった」とこのけがでも気持ちは折れなかった。
以降も安定した成績を残し、1月11日の北國銀行戦ではリーグ通算400得点を達成。これまでベストセブンには2度選出された。オムロンの水野裕紀監督は「パワーのある相手に勝るスピードと経験値がある。相手は力を出せずに終わる」と認める。
■強み
精神的な強さは、底なしの探究心が支える。日本代表はここ3年、海外勢対策として選手の体重増加を促している。勝連も57キロから61キロに増量した。当たり負けない体となり、シュートの威力は増す。同時に、関節のけがなどのリスクにもつながる。
30歳になり体の疲れも取れにくくなった。小柄だが世界で戦うサッカーの長友佑都の本を読んだり、見よう見まねでヨガをしたりした。「気になったら調べたくなるタイプ」と言い、何にでも挑戦している。
昨年の世界選手権はオムロンの本拠地、熊本で開催された。リザーブで7試合に出場して8得点。女子代表過去最高の10位にも「自分たちの弱さが出て勝てる試合を落としていた。誰一人納得していない」と満足しなかった。
今では代表で上から3番目のベテラン。「夢」だった五輪の舞台が「目標」に変わった。代表監督、主将の目の届かぬところに声掛けし、同じ方向性を向かせるなど重要な役割も担う。中学時代を振り返り「先生が怖かったからハンドを始めた人とは思えないですよね」と笑った。
東京五輪の代表選手枠は世界選手権より2人少なく、争いはより激しくなる。「“オリ”とも呼ばれ、縁を感じる。まずは日本リーグをしっかり戦い、代表メンバーに選ばれたい」とどこまでも冷静に、先を見据えていた。
(敬称略)
(喜屋武研伍)