『歌集 遠海鳴り』 気品に満ちた歌人の息吹


社会
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『歌集 遠海鳴り』屋部公子著 砂子屋書房・3300円

 雪降ると聞けば記憶の甦る
 とほき二月のとほき叛乱

 巻頭に置かれた戒厳令下の東都の、「二・二六事件」で緊迫した空気を直接体験した歌人少女期の追憶の一首である。

 1936年、天皇親政の国家改造を求めて皇道派青年将校らが起こした軍事クーデターは、以後の軍部専横を招き、やがて太平洋戦争突入の端緒を開く。その終局は、“皇土防衛”の捨て石としての沖縄戦の惨禍となり、敗戦による「天皇メッセージ」に添う米軍占領支配への投棄、「復帰」=再併合を経て「辺野古」新基地建設強行に象徴される国家権力の暴力的被虐の現在に至る。

 「たたかひの惨うつたふる頭蓋骨暗き眼窩に悲しみ湛ふ」「石抱きの刑のごとしもブロックを重く沈める辺野古の海に」

 少女期の記憶は、時代の不条理に鋭く感応する作歌のライトモチーフになって詠(うた)い継がれ、戦禍への哀悼、現下の情況に抗(あらが)う心の表白として同時代を生きる世代の憤怒に共振するだけではなく、戦争を知らない世代の想像力をもかき立てる波動となって非戦の思いを喚起するに違いない。

 著者はかつて地元二紙で「歌壇」の選者を務めた県短歌界のリーダーの一人である。その詠歌も上記のような時事詠のみに終始するものではなく、自然詠や旅を行く歌はもとより、亡き肉親の追想もあれば女人の心象の機微を詠む相問の歌と思える作品もあって内容は多彩。そして高齢の歌人らしい凜(りん)とした気品に満ちる。

 「亡き母の好まししとふ野牡丹を嫁いつくしむその紫を」「手触るれば破れむばかり故布(こふ)われの脆くも揺るる今日の心は」

 「あとがき」によると「歌集は生涯に一冊」と決めて、95年に処女歌集「青い夜」を上梓するが、卒寿を迎えてその後の作品が心残りで初志を再考、本書公刊に至ったという。著者のこの決断に共感、時代の奔流を生きた歌人の息吹にあらためて触れる喜びを共にしたいと思う。広く推奨したい一冊である。

 (新川明・ジャーナリスト)

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 やぶ・きみこ 1929年那覇市生まれ。2000年~16年12月、「琉球歌壇」選者を務める。1980年に琉球新報社「第一回琉球歌壇年間賞」金賞。95年に第一歌集「青い夜」を出版。同年、第30回「タイムス芸術選賞」文学部門の奨励賞を受賞。

歌集 遠海鳴り
歌集 遠海鳴り

posted with amazlet at 20.03.15
屋部 公子
砂子屋書房