「なぜ、亡くなったの」その名をなぞり、胸に刻む 75年前の惨劇<おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 なぞった指の感触を、宜野湾市の宮城千恵さんは今も忘れない。その感覚は想像の翼を広げさせ、生まれる13年前の沖縄戦に連れて行く。

 母方の祖父母は1945年3月28日、渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)で亡くなった。島の戦没者を慰霊する「白玉之塔」に二人の名は刻まれている。琉球大学生時代に訪れた塔の碑にその名前を見つけた。何度も何度も指を名前に重ね、沿わせた。「おじいちゃん、おばあちゃん、会いたい」とうめいた。

 祖父は沖縄本島から赴任して学校長、村長などを務めた。なぜ、二人は命を奪われたのか。いくつかの証言をつきあわせても、最期の状況のすべてがわかっているとは言いがたい。宮城さんは自ら作詞した鎮魂歌「命どぅ宝」(作曲、入里叶男さん)で、「なぜ なぜ 亡くなったの おじいちゃん おばあちゃん」と募らせた思いを投げかけ、慰霊の式典で歌い続けてきた。

 惨劇の前夜、27日の夜、篠突(しのつ)く雨のなか、住民はびしょぬれになって島の北部、北山(にしやま)を目指した。行く手に立ちふさがる木々を払いのけ、現在の「集団自決跡地」の碑が建つ地点から下った谷底に到着すると、一帯に数百人の住民が集まっていた。

 この日、島に上陸した米軍は翌28日には北山の別の場所に陣を構えた日本軍に集中砲火を浴びせた。谷底の住民に疲労感と恐怖感が広がり、絶望感も加わってくる。やがて、「天皇陛下、万歳」と男の声が聞え、ズドーンという鈍い音と女の叫び声も響いてきた。地獄絵のなかで、祖父母を含む計330人もの住民が無残な死をとげた。

 沖縄の地上戦は75年前の3月、慶良間諸島への米軍上陸から始まった。日米両軍の戦闘と同時に、慶良間の島々で相前後して住民が集団で命を絶った。4月には、沖縄本島や伊江島でも続いた。沖縄戦は開戦劈頭(へきとう)から、住民がいたましい死を強いられた戦争であったことを銘記しておかなければならない。

 こうした死について、「沖縄戦の図」(沖縄県宜野湾市の佐喜眞美術館所蔵)を描いた丸木位里・俊夫妻は縦4メートル、横8・5メートルのこの作品の隅に肉筆で次のように記している。

 「沖縄戦の図 恥かしめを受けぬ前に死ね 手りゅうだんを下さい 鎌で鍬でカミソリでやれ 親は子を夫は妻を 若ものはとしよりを エメラルドの海は紅に 集団自決とは 手を下さない虐殺である」

 「手を下さない虐殺」の主語は明らかに日本軍である。「軍官民、共生共死」を強制して民間人を庇護(ひご)の対象と見なすことなく、兵士同様に「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」とした。これが、住民を非業の死に追い込む主因となった。

 この世のものとは思えない。形容しがたいほどの、凄惨(せいさん)な出来事。それ故に、奇跡的に生き残っても記憶を胸の内に封印し、口を閉ざしている人もいる。語ろうとする人でさえ、言葉に詰まる瞬間がある。75年前、沖縄戦で住民が被(こうむ)った〈いくさ〉の傷のうずきは今なお、消えてはいないのだ。

 宮城さんは今年も慰霊のために島に渡る。「平和な 平和な この島で 起こった悲しい出来事」(鎮魂歌「命どぅ宝」の一節)をあらためて胸に刻む。4月から教鞭を執る那覇市内の大学の担当は英語だが、折あるごとに沖縄戦についても触れる覚悟だ。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)