「急に米軍が現れた」 75年前の本島上陸 北谷町 崎原盛信さん(81)


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家族と身を潜めていた壕を指さす崎原盛信さん=3月27日、北谷町玉上

 【北谷】75年前のきょう、沖縄本島中部の西海岸に米軍が上陸した。上陸時の戦闘を避ける戦術をとった日本軍はほとんど反撃しなかったため、米軍は大きな損害を受けないまま続々と沖縄の地を踏んだ。ありったけの地獄を集めた地上戦は静かに始まった。「米軍がやって来るなんてまったく分からなかった」。目の前に突如現れた米兵に捕らわれた崎原盛信さん(81)=北谷町=は75年前の本島地上戦の幕開けを振り返った。

 1945年4月1日の米軍上陸を控え、当時の北谷村住民は北部への避難を急いだ。しかし、町玉上に住んでいた崎原さん一家は「どうせ死ぬなら地元で」という祖父の思いをくみ、地元にとどまった。空襲が激しくなった3月末、家から300メートルほど離れたところにある山中の壕に避難した。

 「信じられないほどのたやすさ」(米陸軍省編「沖縄 日本最後の戦闘」)で米軍は上陸し、一気に進攻した。一家が隠れていた壕の周辺まで駆け上がった米軍に見つかり、一家はそのまま捕らわれた。

 「急に米軍が現れた。恐怖を感じる間もなかった」と崎原さん。しかし、母ソノさんは強い恐怖心を抱いていた。「海に捨てられるのか、皆並べられてひき殺されるのか」と案じ「ワーワー泣いた」と後に証言している(「北谷町史」)。

 収容地区での暮らしは飢えとの闘いだった。トラックで砂辺に運ばれたが、翌日には中城村島袋(現北中城村)に移動した。その後、金武村福山(現宜野座村)、宜野湾村(現宜野湾市)野嵩の収容地区を転々とした。米軍が支給する物資では飢えをしのぐことはできず、「食べ物がなくて、アタビー(カエル)を捕まえて食べたことも、他人の畑からイモを取ることもあった」と振り返る。

 崎原さんは「米軍が上陸して、すぐに捕まっているのでほかの人と比べると苦労はしていない」と語る。それでも「当たり前に学校に通えない、おなかいっぱいご飯を食べられない。そんな時代が2度と来てはならないことは強く思うよ」とかみしめるように語った。 (新垣若菜)