多くの少年少女が犠牲に 動員された女性が語る義勇隊の沖縄戦 「平和な世の中続いて」


社会
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かつて野戦病院の炊事場として使われた湧水場「メーヌカー」で戦争体験を語る大宜見良子さん=3月26日、沖縄市知花

 【沖縄】75年前の4月、沖縄はまさに戦闘のさなかにあった。旧美里村知花(現沖縄市)の大宜見良子さん(90)=当時15歳、旧姓池原=は、1945年3月27日に義勇隊から召集命令を受けた。しかし米軍の上陸から一夜明けた4月2日、「女は足手まといになるから家に帰り、男は島尻に」との命令を受け、地元へ避難した。一方で義勇隊に同行した少年らは戦闘に巻き込まれた。この日を境に明暗が分かれた。「先輩たちとはそれっきり…。自分のような経験を、子どもたちにはしてほしくない」と語った。

 44年3月に美里国民学校を卒業後、学校の給仕として働いた。程なくして、日本陸軍の中飛行場(現嘉手納基地)の建設作業や壕掘りに徴用され、知花にあった野戦病院の炊事にも駆り出された。

1945年3月27日の爆撃時に米軍機から撮影された中飛行場。写真上方にあるのが嘉手納村(現嘉手納町)屋良の集落(県公文書館所蔵)

 日本軍は兵役法に該当しない少年少女を義勇隊として編成し、各字から召集していた。上陸が迫る45年3月27日に入隊命令を受けた大宜見さんは、胡屋で戦車壕を掘ったり、地雷を仕掛けたりした。米軍上陸時は現在の沖縄市役所近くの墓に身を潜めた。

 4月2日、米軍は胡屋付近まで侵攻、隊長から解散の指示を受けた。照明弾が頭上を飛ぶ中、自宅のある知花に向かった大宜見さんたち。「怖い気持ちはなかった。人の肩に乗って崖を登り、必死で走った」。沖縄市史によると、その後引き続き戦闘要員として残った義勇隊は軍の銃撃に遭うなど多数の死者が出たという。
 知花に着くと、現在の美里中学校近くの壕に隠れた。しばらくして「デテコイ、デテコイ」と呼び掛ける米軍の声が聞こえた。「米軍に見つかったら『天皇陛下万歳』と言って死ねと教育された。でも誰も言わないよ。『アンマー(お母さん)よー』と言おうと思った」。死を覚悟したが、米軍に保護され、具志川村赤道(現うるま市)の収容所に連れて行かれた。身内は無事だったが、飢えに苦しんだ収容所生活だった。
 米軍は上陸後に今の嘉手納基地に当たる中飛行場を占領し、滑走路を整備。旧日本軍の飛行場は極東最大の軍事基地へと形を変えた。大宜見さんは「戦争のために基地がある。今は食べ物も教育も何でもあって困らない社会になった。平和な世の中が続いてほしい」と願っている。
 (下地美夏子)


<用語>義勇隊

 日本軍は兵役法に該当しない年齢層の青年学校、中等学校生徒を各字から集め、防衛義勇隊を構成した。沖縄戦では地区部隊の指揮下に置かれ、弾薬の運搬や偵察、伝令などの後方支援のほか、激戦地では戦闘にも参加した。