「三線で食べていく」と石垣から那覇へ 唄者・新良幸人が語った故郷への思い


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「那覇の街で育ったから今の自分がいる」と語る新良幸人=那覇市内

 石垣島出身の唄者、新良幸人が今年で100回目となるソロライブと30回目の「一合瓶ライブ」を開く。黒めの衣装とサングラス、ピアスを身に着け、力強い三線と味のある歌声を届ける。県内外からファンが駆け付け、聴く人を魅了する新良の音楽。これまで続けてきた二つのライブと唄者としての半生を聞いた。(4月26日に開催予定だったソロライブは新型コロナウイルスの感染拡大の影響により10月3日に延期した。一合瓶ライブは6月20日の開催を予定している。)

 新良は島唄の文化が色濃く残る石垣市の白保で生まれた。18歳の時に那覇へ移り住み、三線一つで音楽を始めた。20代の頃に「三線で食べていく」ことを決意した。

 1991年「一合瓶ライブ」を始め、毎年慰霊の日がある6月にゲストを招いて、観客と一緒に泡盛を交わしながらライブをする。「あの日(慰霊の日)を忘れずに、島酒を飲んでゆったりと観客と音楽を楽しみながら、ポッケの中には『大事な日だよ』という思いを忍ばせている」と思いを語った。

 一方で87年から那覇市牧志にあった沖縄ジァンジァンで演奏活動をしていた新良は、ジァンジァンの閉館後に拠点をリウボウホールに変更し、93年にソロライブを始めた。リウボウホールの閉館後は桜坂劇場に移動し、ライブを続けている。新良は「ほかのライブハウスと違い、ホールは特別な場所だ」という。「ライブハウスだと(ファンが集まるので)掌握できるが、ホールはファン以外の初めてのお客さんが聴きに来る。緊張感があって身が引き締まる」

 新良は那覇に活動拠点を置くことにこだわる。「自分を受け入れ、育ててくれたのは那覇だ。那覇で活動するロックやジャズの先輩たちが『おまえはそのままで音楽をやっていけばいい』と言ってくれた。那覇の街で育ったから今の自分がいる」

 那覇にいても、故郷の白保には特別な感情を抱く。「新しい曲をつくっても、カバー曲を歌っても、常に白保の風景が出てくる。那覇から白保は遠いが、自分の心の中にはいつもそばに白保の風景がある」と力を込めた。

 100回目となるソロライブは「八重山の歌を披露したい」という。「ソロライブを始めた頃はオリジナル曲は1曲もなかった。ステージに立って歌っていたのは自分を支えてくれた八重山の歌だった。感謝を込めて歌いたい。一合瓶ライブでも最高のゲストを呼んでいる」 
  (金城実倫)