「にぎり飯1個だけ」「日本軍が隠した食料を搬入」伊江村収容所の記録と共に語られる体験者の証言


社会
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 75年前の4月19日。米軍が伊江島に上陸して3日後の日付が記された伊江村民収容所(ナーラ収容所)の「炊事(すいじ)竝(ならびに)幕舎記録」からは、収容から数日で住民が自ら役割分担や規定を決め、秩序をつくっていった状況がうかがえる。米軍が伊江島確保を宣言したのが4月21日。女性を含む一般住民も総攻撃に参加して住民約1500人が犠牲になり、「集団自決」(強制集団死)に追い込まれる人々もいた伊江島。「沖縄戦の縮図」とも表現される地獄のような戦闘が続く中、収容所では既に住民たちが生き抜くために次の段階の生活が始まっていた。

75年前に「ナーラ収容所」があった場所を指し、当時の様子を証言する大城賢雄さん(右)と新城晃さん=3月26日、伊江村

 当時12歳の大城賢雄さん(87)=伊江村=がナーラ収容所に入ったのは米軍が上陸した1945年4月16日夕。米軍が「出てこい」と呼び掛け迫る中、墓に隠れた家族、親戚ら約40人と共に死を覚悟しつつ、父が「どうせ死ぬなら出て行こう」と声を上げたのをきっかけに投降した。

 大城さんによると、収容3日目の4月18日、住民らは米兵が運転するジープに乗せられ、戦前から日本軍が非常用食糧を保管していた島内の複数の場所へ向かった。「(住民たちは)皆、隠し場所を知っていて米やみそ、塩、鍋、水などを収容所へ持ち帰った」と大城さん。その米などを炊事班が炊事場で炊いた。

 今年3月、「炊事竝幕舎記録」(複写)を見た大城さんは本紙取材に、記録を指さしながら炊事要員として母の知念ナヘさんの名前、炊事班長の伯父・知念正助さんら家族や親戚、知人の名を次々に確認した。

米軍上陸後に投降した際の自らが写る写真を前に、伊江島での戦争体験について語る島袋満英さん=3月26日、伊江村

 4月下旬にナーラ収容所に入った当時9歳の島袋満英さん(84)は「収容所では朝、昼、晩に(小さな)にぎり飯1個だけ配られた。遊んでいる間に配給が終わっていることもあった。食事時間には帰ってこないと大変だった」と語る。

 沖縄戦当時7~8歳でナーラ収容所の生活を体験した元伊江村教育長の新城晃さん(82)は、病気で亡くなった娘・みちよさん(沖縄リハビリテーション福祉学院の学科長)から生前に送られていたDVDに「炊事竝幕舎記録」の写真データがあったことをきっかけに同記録の存在を知った。新城さんは「『伊江村史』や『伊江島の戦中・戦後体験記録』を補完する資料になると思う」と期待を込めた。