モヒカン頭に誰よりも大きな声。ウィルチェアラグビー(車いすラグビー)の第一線を走り続ける仲里進はコートの内外でひときわ目立つ存在だ。
最下位に終わった2004年のアテネパラリンピックから日本代表をけん引し、16年のリオデジャネイロ大会では日本代表初の銅メダル獲得に貢献した。技を磨き、チームを鼓舞し、日本の競技レベルを引き上げてきた仲里。リオで銅メダルを手にした直後のインタビューで、「何を言おうかいろいろ考えた」と前置きして、こう続けた。
「障がいを持って生まれて良かった」
「守られる存在」から生まれ変わった瞬間
仲里は生まれつき複数箇所の関節が固まったり変形したりしている「先天性多発性関節拘縮症」を患う。父が同じ疾患を抱え、母もポリオ(小児まひ)という家庭に育った。両親は「ハンディに負けず強く生きてほしい」と一人息子を甘やかすことなく、小中高も普通学校に通った。学校生活は楽しかったが、外見をからかわれたり、心ない言葉を掛けられたりした経験も少なくない。遊びに行った友達の家で「こういう子は連れてこないで」と言われているのを聞いたこともあった。恋愛も、就職も「障がい者」であることが壁になった。両親につらい言葉で当たった。
21歳のとき。生きることが苦しくなり、睡眠薬を大量に服用して自ら命を絶とうとした。見舞いに来る親や友人、恩師ら自分に寄り添ってくれる人たちの姿に心が動いた。「どうせ死ねなかったんなら、障がいがあっても楽しんで生きてみよう」
そして2002年、車いすラグビーに出合う。車のバンパーのような装甲を施した車いすでぶつかり合う音。「マーダー(殺人)ボール)」の異名を持つ荒々しさに衝撃を受けた。「守られる存在」という障がい者のイメージが一気に崩れた。「命を懸けてやれるスポーツ」。どっぷりと競技にのめり込んだ。
増していく存在感、前人未到の偉業へ
競技を始めて1年半で日本代表に選ばれ、2004年のアテネパラリンピックに出場。08年の北京大会から始めたモヒカン頭は「試合相手を威嚇する意味もあるし、人に印象づける意味もある」。戦意を前面に出すプレースタイル、海外選手の懐に飛び込んで技を吸収する貪欲さ。仲里進という人物を象徴するトレードマークとして定着した。
北京後には米国のチームからオファーを受け、渡米。通算3シーズン、トップリーグで活躍した。日本は12年のロンドン大会ではメダルにあと一歩に迫る4位だった。アテネの最下位、北京の7位からの大躍進。圧倒的な差があった強豪国にも堂々と張り合った。日本代表がレベルアップした背景には、間違いなく仲里の海外経験があった。
16年のリオ大会。既にベテランの域に達した仲里に与えられたポジションはいわゆるスタメンの「ファーストライン」ではなく「セカンドライン」(※ライン=コート内でプレーする4選手の組み合わせ)。チームの中心だったそれまでの大会とは違う役割を求められた。声を張り上げて仲間を鼓舞し、コートに入れば攻守にバランスを取ってゲームを運んだ。そして手にした銅メダル。
「障がいを持って生まれて良かった」
自分の力で道を切り開き存在意義を見いだしたという誇りだけでなく、つらく当たってしまった両親へのざんげと感謝が込められていた。打ち込める競技と出合い、志をともにする仲間と巡り会えたことへの感慨もあっただろう。
リオ大会後、仲里は両親を相次いで亡くした。東京大会で5大会連続出場を果たせば、車いすラグビーでは前人未到の偉業だ。いくつもの壁を乗り越えてきたフロントランナーがまた一段、高いハードルに挑む。その姿はきっと、多くの人の支えになる。
(稲福政俊、大城周子)
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