「屈辱の日」68年 沖縄出身500人、バラック寮で生き抜いた「戦後」


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沖縄県出身で満州から引き揚げた後は福岡に住み続けた椎葉栄子さん=福岡県春日市

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された「屈辱の日」から28日で68年。太平洋戦争がきっかけで今も故郷を離れ、県外に住む沖縄県人は多い。一方、沖縄出身というだけで十分な食料を得られないなど、戦後の暮らしはままならなかった。故郷の沖縄から離れた場所で、それぞれの戦後があった。

 バラック寮に身を寄せ

 やちむんのシーサーや琉球ガラスの表札―。福岡県春日市のあちらこちらに、沖縄のぬくもりを感じる場所がある。戦前の疎開者や戦後の引き揚げ者など、多くの県人が住んだ場所が福岡にあった。

 長崎県の佐世保港に約140万人、福岡県の博多港に約139万人が終戦後、中国や朝鮮半島から引き揚げてきた。小禄村(現・那覇市)生まれの椎葉栄子さん(83)=春日市=は、両親やきょうだい家族5人で満州から佐世保港に引き揚げた1946年4月のことを、昨日のように覚えている。「沖縄は全滅したというし、元の家があるかも分からない。親戚と連絡も取れなかった」

 一家は父の知人が暮らす福岡へ向かい、知人宅に身を寄せようとした。しかし、戦後間もない混乱期に他人の面倒を見る余裕はどの家庭にもなかった。

 ちょうどその頃、沖縄県福岡事務所が引き揚げ者の援護措置として福岡県春日村(現春日市)に寮を確保していた。戦時中、米軍爆撃機B29迎撃用の戦闘機を開発していた九州飛行機の社員寮、男子寮の「岡本寮」と女子寮の「欽修寮」。寮2棟を買い上げ、県出身者の住まいとしていた。行き場のなかった一家が欽修寮に着くと、2階建てのバラック寮にはすでに県人約500人が身を寄せていた。ほとんどが引き揚げ者で、久しぶりに聞くウチナーグチに「安心した」という。

椎葉栄子さんの父で元春日市長の亀谷長栄さん

 「まるで外国人の扱い」

 一方、戦後の食糧難で春日村からの配給は、欽修寮まで届かなかった。優先されるのは元々の村民。県人への配給は必然的に減っていった。椎葉さんは「あの頃は『沖縄だからそんな扱いでいい』と思われていた。食べるものがなくて、誰もが大変な時代だったから」

 椎葉さんの父・亀谷長栄さん=玉城村(現南城市)出身=の伝記にこんな記述がある。「引き揚げの時は地獄でした。でもそのことよりも、残念なのは大陸でお国のために頑張った者が、引き揚げ者ということだけで帰国後もつらい生活をしているのはおかしいと思います。まして沖縄人はまるで外国人みたいに扱われています」

 亀谷さんは「戦前の教育がすべて間違っていた」と、それぞれの寮に保育園をつくった。県民だけでなく、春日村の人々からも厚い信頼を得て、後年は春日市長となり政治や教育の重要性を訴えた。亀谷さんが創立した保育園を椎葉さんが引き継ぎ、園は今も健在だ。

 沖縄が復帰する前年の71年、市営住宅に転用されるまで欽修寮は続き、沖縄県出身者の戦後の生活を支えた。戦後を生き抜いた県人らが福岡で沖縄のコミュニティーをつくり、福岡沖縄県人会が生まれたのも、この場所だった。椎葉さんは言う。「あんな思いをするのは、私たちだけで十分ですよね。今の子どもたちには、平和で幸せな暮らしをしてほしい」
 (阪口彩子)


郷里の情報を網羅/福岡で発行「沖縄新民報」
 

沖縄と九州各地にいた引き揚げ県民のために福岡で発行された沖縄新民報

 1946年1月、那覇市生まれの親泊政博氏が県出身者のための機関紙として「沖縄新民報」を創刊した。終戦後の混乱期の中、九州の県出身者らのための尋ね人欄や、沖縄の復興計画など、県人らが欲する情報が掲載されていた。

 疎開や引き揚げで九州各地にいた県出身者らは終戦後、沖縄に戻ることができず、通信手段も途絶えて故郷の情報に飢えていた。

 沖縄新民報は沖縄県福岡事務所が置かれた福岡市天神町(当時)の百貨店・岩田屋の3階で発行され、1953年12月まで刊行を続けた。