4月17日、沖縄県糸満市の琉球ガラス村で窯の火が止まった。1983年の創業以来、窯の入れ替え以外で火を止めたことはない。「米同時多発テロで観光客が減少したときも止めたことはなかったのに」。ガラス村を運営するRGCの稲嶺佳乃社長は声を落とした。
施設は4月10日から臨時休館中。窯の火が止まっているため、職人たちも作品作りができない状態が続いている。「職人たちに本当に申し訳ない。売り上げが大幅に減る中、一番経費がかかる窯の火をそのまま付けておくことはできなかった」。事業存続のための苦渋の決断だった。
県民にとって観光土産品の印象が強い琉球ガラスだが、最初からそうだったわけではない。琉球ガラスの製作技法が沖縄に入ってきたのは明治時代。当時は透明瓶のくずガラスを原料に、薬瓶やランプのホヤなど生活用品を作っていた。
戦後、米軍人らが使う日常の器や土産品として琉球ガラスの注文が増加。需要に対応するため、破棄されたコーラやビールなどの空き瓶を再利用するようになり、カラフルな色ガラスが誕生した。
日用品から土産品への転機となったのは1975年の沖縄海洋博覧会だった。観光客の増加とともに土産市場も拡大した。廃瓶に代わり原料ガラスを使用するようになり、着色技法も進化。98年には県の伝統工芸品に認定された。
美術工芸品として地位を確立してきた一方で、県民から遠い存在になっていたのも事実。「琉球ガラスは県外の人の物でしょう」。知人から言われたその一言が、稲嶺社長には忘れられない。
コロナ前から取り組んでいるのは、観光客向けの製品から、県民の暮らしの中にある日常使いの製品へのシフトチェンジだ。コップだけでなく、小鉢や器、ワイングラスなども開発。テーブルコーディネートも提案している。
生まれ故郷の島や海、夜空の星、戦火を逃れた石畳―。職人たちがこれまで見て感じてきた沖縄の自然や文化が、琉球ガラスには投影されている。稲嶺社長は「テーブルに載せるだけでぱっと明るくなる。コンビニで買ったお総菜でも豪華に見える。ステイホームの今こそ、家で眠っている琉球ガラスを使ってほしい」と呼び掛ける。
観光客に支持され、成長してきたことに感謝しつつも、今は地元の声をもっと聞きたいと考えている。地域の子どもたちが琉球ガラスについて学び、ものづくりを身近に感じられるように施設はリニューアル中だ。「物があふれているからこそ、自分の愛着のある物に囲まれて暮らしたいという人が増えるはず。工芸を残すには地元の人に必要とされないといけない」。コロナ後を見据え、動き出している。
(玉城江梨子)