コロナ禍の中で…「命どぅ宝」の心、さらに<おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 75年前の5月22日、日本軍が司令部を置いた首里城地下で、沖縄戦の行方を決定づける作戦会議が開かれた。集まったのは、司令部参謀全員と司令部傘下の二つの師団からそれぞれの参謀長と参謀。混成旅団、砲兵隊、海軍根拠地隊の各参謀も加わった。撤退か、首里城複郭陣地で待ち受けて「玉砕」か。司令部の高級参謀がリードした議論の結論は、「本土決戦を有利にするため」南部に下って徹底抗戦する、だった。その5日後に撤退開始。日本軍最後の作戦は、避難民でひしめく南部を舞台に、人命を盾にする無慈悲なものとなった。

 おびただしい数の死を目にしたとき、生き残った人たちは自らの生を安堵(あんど)する以上に、非道な戦争の姿を感じ取った。ここまで国民を追い込んだ国家とは何なのか、とも思い至る。

 当時、鉄血勤皇隊の一員として動員され、3年前に亡くなった大田昌秀さんもそんな気持ちを書き残している。大田さんはこのときの体験を原点に抱え、後に大学の研究者として、また、沖縄県知事として沖縄戦での犠牲の意味を問い、「戦争と国家」を考え抜いた。

 大田さんのような立場でなくても、同じ思いで「いま」を生きている人たちの存在を知ることができる。今日も紙面の一角を占める本紙の連載「読者と刻む沖縄戦」である。昨年の10月、「10・10空襲」から75年の節目を機に始まった。以後、戦局の「あのとき」の展開を追いながら記憶の語りがほぼ連日、続く。

 掲載面は1面や社会面などの目を引きやすい場所ではない。そこから奥に入った「ひと・暮らし」面だ。他の記事と違って「です・ます」で綴(つづ)る。残り少ない時間を意識して証言を重ねる体験者の胸の内を素直に言い表している文体に、心を澄まして聴き取る記者の真摯な姿が想像できる。行間には「命どぅ宝」への祈りが世代を超えて同じ調べを奏でている。

 開始から足かけ8カ月の展開を続ける連載の視座は、住民の側から離れることはない。市井の人たちが記憶を紡ぎ、風化させてはならぬとの強い思いを、記者の力を借りて歴史に刻む。危うい平和の「いま」の現場写真と戦時の「あのとき」の証言が、75年の時間を超えて企画記事の小さな空間で往還する。

 自らの命を大切に思い、他人の命も尊重する。この理念と論理を超えるものなど、どこにもありはしない。長期連載という取り組みから読み取れるのは、住民を意識的に戦闘に巻きこんだ人間の非情だ。天災ではない。理念の冷笑と論理の破綻がもたらす人災の底なしの恐ろしさが、浮き彫りになる。

 「戦争は、いやおうなしの教訓を押しつける暴力的教師だ」。自ら編集して著わした『総史沖縄戦』の「はじめに」で、大田さんは先人の言葉をこう引用している。そして、沖縄戦の教訓は「軍隊が民衆を守るというのは幻想に過ぎない」と言い切る。だからこそ、遺訓として伝えるべきは平和国家を堅持するための努力と志であり、その主柱である「命どぅ宝」の心のさらなる評価と推進なのだ。

 新型コロナウイルスへの警戒が続く。「新しい生活スタイル」も提唱されている。発生こそ人知の及ばない天災であっても、感染拡大の抑え込みは、他者を思い合う心と英知が生む創意工夫、医療従事者の奮闘によって可能となる。治療薬の開発は、国境の壁を越えた医療情報の共有と協力のネットワークが欠かせない。最優先すべきは命であり、国家に求められるのは、命を守るための覚悟と迅速な行動、説明であることに私たちはいま、気づいている。

 命を中心に置いて、社会の仕組みとありようを見つめ直す。それが、理不尽にも命を奪われた歴史の体験を想起させ、失われてはならない記憶がたぐり寄せた沖縄の心に重なる。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)