沖縄返還覚書で米軍の民間地使用認める 日本が「境界線内」を提案


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沖縄返還交渉の過程で、日本側が「現在の境界線内」という文言で米軍の施設・区域使用を提案したことが分かる米政府の機密文書

 沖縄の日本復帰を巡り、1971年6月に日米両政府が署名、締結した沖縄返還協定の了解覚書の中で、返還後に米軍が使用する基地や区域について「現在の境界線内」で使用を認めると、米統治下と同様に米軍が民間地を使用できるとした文言が日本政府の提案で盛り込まれたことが分かった。野添文彬沖縄国際大准教授と山本章子琉球大准教授が米国政府の機密文書を分析し、日米交渉の経緯を明らかにした。

 米側は返還協定に基地機能の維持を明文化するよう要望したが、日本側は国内で政治問題として追及されることを懸念し、曖昧な表現で了解覚書に盛り込んで米側の要求に応えた。

 返還協定や了解覚書は、72年5月15日の日米合同委員会で日米両政府が沖縄での米軍施設や訓練区域の使用条件で合意した「5・15メモ」に反映された。その結果、73年から97年まで続いた県道104号越えの実弾砲撃訓練や、津堅島周辺海域でのパラシュート降下訓練など米軍が民間地で訓練できる状況につながった。

 米側は当初、日本が基地の返還を要求しても米国側が拒否すれば暫定的にその基地を使用できるという52年のサンフランシスコ講和条約発効前の「岡崎・ラスク交換公文」を沖縄に適用することを要望していた。

 71年4月10日の駐日米国大使館から米国務長官宛ての電報には、日本側は復帰前の境界線内を米軍が引き続き使用することを提案したことが記されている。

 野添准教授は「日本政府は基地の整理縮小を求め、米側は基地の機能や使用を維持したいというせめぎ合いが続いていた。そこで日本が編み出したのが『境界線内』という文言で米統治下と同じ範囲内で米軍が使えるということだった」と指摘している。

あいまいにして譲歩 野添文彬氏(沖国大准教授)
 

野添 文彬氏

 これまで「5・15メモ」が問題だとは分かっていたがなぜこのメモができたのか、経緯が分からなかった。今回の資料で、その一端が明らかになった。1969年の沖縄返還合意当時は米軍基地をどう扱うかは決まっていなかった。70年、日本政府は基地の整理縮小を求め、既得権益の維持を求める米側とのせめぎ合いが続いた。日本側は米側との交渉が、かなり厳しいと認識し、要求を下げて返還実現を最優先した。

 了解覚書そのものは当時公表されていた。「境界線」の文言が実は大事だったというのが交渉記録で初めて分かった。境界線内に込められた意味、米統治の時代と同じように使えるという意味を曖昧な文言に込めた。資料では、日本政府が国会での追及や県民の反発で政治問題になるのを恐れていることも分かる。

 日本が復帰を急いだあまり、5・15メモや財政密約、核密約といったひずみが出た。その結果、復帰後も沖縄の人々に負担を掛けることになった。沖縄返還の歴史は明らかになったこともあるが、まだまだ闇があり今の問題につながる。それを明らかにしていく必要がある。
 (国際政治学)

見せかけの整理縮小 山本章子氏(琉大准教授)
 

山本 章子氏

 沖縄返還で県民が求めていた「核ぬき本土並み」を日米両政府は有名無実化し、有事に核を持ち込める密約を交わしていた。沖縄は本土並みに基地を整理縮小することを求めていたが日本政府側は本土と同じような日米安保条約、日米地位協定の適用だと主張していた。だが民間地の使用を認めたことは、政府が沖縄に対し言っていた安保条約や地位協定の適用さえうそだったということだ。地位協定2条では、日本政府が施設区域を提供した場所を米軍は使用できる。米軍は提供されていない場所を使用できないはずなのに沖縄ではそれが許される。本土で米軍が民間地を利用している事例はない。地位協定を形骸化させている。

 日本政府は返還協定に書き込むと政治問題になり、沖縄の人々も国政野党も反発することを懸念し、了解覚書という「目立たないところ」に書き込んだ。国民に見えないようにやっている。政府のやり方はいつも姑息(こそく)だ。基地の整理縮小という沖縄の要求を受け入れたかのように見せかけた結果、復帰後も沖縄の人々の生活実態は何も変わらず、基地の負担は軽減されていない。
 (安全保障論)