戦後75年、今も耳から離れない歌声 「島守」と呼ばれた知事の素顔は


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島田叡知事と行動を共にした沖縄戦当時を振り返る崎浜千代さん=4月、国頭村辺土名

 沖縄戦のさなか、最後の官選知事だった島田叡知事や先代の泉守紀知事を身近で見詰めた人がいる。1945年、19歳だった崎浜千代さん(94)=旧姓・知花、国頭村=は妹らと共に知事官舎で料理など家事を担った。米軍の沖縄本島への上陸後、やがて消息不明となる島田知事と戦場で共に行動した。千代さんは「島田知事には歌を教えてもらった」とその素顔を振り返った。

 千代さんは国頭村辺土名で生まれた。病院で働いていた1944年ごろ、知事官舎で調理を担当していたいとこの島袋イネさんに請われて転職した。四つ年下の妹セツさんも一緒で、当初は泉守紀知事だった。

 北部への住民の疎開などを巡って軍と対立した後に香川に転出した泉知事、戦禍の沖縄に赴任した島田知事の評価はそれぞれ分かれる。千代さんによると、泉知事は官舎では1人で過ごすことが多かった。持病もあり、体が丈夫な印象はなかったという。

 島田知事は45年1月末に赴任した。米を調達するため、2月に台湾へ渡った。戻ってきた島田知事は官舎で働く千代さんらに歌を教えてくれたという。

 島田 叡氏

 「ウーヤーホエ。ウーヤーホエ」

 島田知事が歌ったのは日本でも「雨に咲く花」として流行した台湾の民謡「雨夜花」。娯楽が限られていた当時、島田知事の歌声が千代さんの耳から離れない。

 3月23日、米軍は沖縄本島や先島、奄美へ大規模な空襲を仕掛けた。4月1日の本島上陸まで続けた。島田知事は首里の与儀医院壕を経て、同4日に当時の真和志村繁多川の那覇署・真和志村役場壕、同25日には真地の県庁・警察部壕に移った。千代さんと妹のセツさんら官舎の職員も知事と共に避難し、那覇署壕を最後に別行動となった。

 島田知事は「これをもらって」と白い万年筆を餞別として千代さんに渡した。

 千代さんは南部方面に避難した。戦闘は徐々に激しくなった。米軍の砲撃が目前に打ち込まれ、妹と畑に飛び込んだ。一緒に逃げた警察官の紹介で摩文仁村では「泉盛一」さんに世話になり、壕で身を潜めたまま組織的戦闘の終結を迎えた。気付くと、島田知事から贈られた万年筆が無くなっていた。知事官舎で働いていた姉妹2人について、家族は再会するまで死んだと思っていたという。

 共に戦場を生き抜いた妹セツさんは数年前に他界した。2人は沖縄戦の体験について語り合うことはほとんどしなかったという。「戦(いくさ)では、追われて嫌なことばかりだった。妹と一緒にもっと話しておけばよかった」。おぼろげになった記憶を刻むように言葉をつないだ。
 (仲村良太)